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フロイト/フィスター往復書簡(1909年2月18日)


3P(18/02/1909)

 精神分析の役割を「魂の癒しの方法」であるとのじぶんの解釈の正しさがフロイト自身の言葉によって確認できてうれしい。フロイトと自分の考え方の(倫理的)相違は、じぶんの職業的立場がそう思わせるほど大きくない。プロテスタント的倫理は性交から不純という汚名を取り去った。宗教改革は、カトリック的な性的抑圧の分析にほかならないが、残念なことに、不十分な分析であった。そこから、教会の正統の不安神経症、ならびにその付随現象、すなわち、魔女裁判、政治的絶対主義、同業組合組織の社会的拘束等々が由来している。われわれ現代の福音派牧師は、完全にプロテスタントであると任じており、新たな土地を求めている。教会はチューリヒ市民に絶対的な自由を保障している。倫理については、自由な考え方ができる。われわれの性的条件は(都市部では)偽善に満ち、穢れている。一夫一婦制と嘘と売春の伝染病のあいだのおぞましい繋がりは明らかであり、たえがたい。ただし、結婚を回避する真の自由恋愛の可能性を見つけるための洞察には欠けている。「自由」恋愛と「野生の[wild]」恋愛の違いはあいまいである。われわれを神経症と悪徳の悲惨から解放してくれるのは、結婚についてのよりよい理論などではなく、社会状況の改善と教育とより健全な生活とである。さしあたっては結婚という理想に代わるものはなく、そこからどれくらい距離を置くかは各人の判断に委ねるほかない。イエスの教えに則り、この理想への道を切り開くことに専心すれば、短所の昇華を促すことになる。

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フロイト/フィスター往復書簡(1909年2月9日)


2F(09/02/1909)

 ご著書を再読、明日の水曜会で取り上げる所存。それに関して以下の点を確認しておきたし。牧師の仕事と医学の相違点についてである(フィスターはシュテーケルに依拠しつつそれを論じている)。精神分析の持続的な成功は、(1)満足の放出(Befriedigungsabfuhr)、および(2)強情な欲動のコントロールと昇華の途を切り開けるかどうかにかかっている。精神分析の患者には道徳的な上昇は期待されていない。これは分析が扱う質的に下等な(minderwertig)素材ゆえである。一方、牧師はひとを宗教的な昇華に導くことができる。それは牧師の人格への「エロス的な転移」によって保証されている。そしてこの転移を神への転移にまで誘導することができる。そこにおいて宗教的な信仰が神経症を抑え込んでしまう(ersticken)。分析家にとっては、このような解決(Erledigung)のチャンスはない。分析の患者は非宗教的であり、分析家じしんも根本的に無宗教である。昇華への道が開かれていないので、分析治療は満足の探究に終わりがちである。分析家は、性的満足それ自体を罪や禁止の対象とは見なさず、むしろ生の営みの貴重な要素と認めている。分析家のいう「エロティックなもの[Erotik]」は、牧師のいう「愛」をも包含する。単なる野卑な官能の享楽ではない。精神分析において患者は分析家に道徳的な上昇とは別のものを求めなければならない。分析家の人格がそうしたものを体現することはできない。それゆえに分析家の義務は高まり、転移の解消にあたって成功を逃すことが多い。
 精神分析はそれ自体としては宗教的でもその反対物でもなく、公平な(unpartiisch)道具であり、聖職者でも世俗の人間でも、「苦しむ人間の解放」に用いるかぎりで実践可能である。私自身、精神分析的方法が「魂の癒し(Seelsorge)」の助けとなり得るかを考えてみたこともなかった。悪しき異端者としてのじぶんはそのような発想(Vorstellungskreis)からほど遠いからであろう。
 ユング的な連想技法は自由連想にたいするメリットをもたないが、厄介なケースや早発性痴呆のような精神病においては不可欠である。神経症者は多いに苦しんでおり、分析家との緊密な共同作業を必要とするからだ。ユングがあなたのモチベーションをかきたてたことはよいことだ。われわれの火種をもとにあなたが育んだ炎がわれわれに多くをもたらしてくれればよいものだ。

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