症例(狼男のそれとやや似ている?)。3~4歳頃に年上の少女に誘惑されて自慰をはじめるが、乳母に去勢脅威を植えつけられる(その際、去勢者として父親が引き合いに出される)。フェティッシュの創造によって自慰は継続されるが、同時に父親への不安が生じる。この不安はちょくせつ去勢不安としてあらわれず、口唇期への退行によって、父親に食われるというかたちをとった(クロノスが参照される)。さらに、両足の小指に触れられる際の不安な感覚という別の小さな症状もともなっていた。「あたかも去勢の否認と承認のさらなる往復運動のなかに[in dem sonstigen Hin und Her]、さらにもうひとつのより明瞭な表現があらわれてきたかのようであり……」。ここで文章は途切れている。
*「ヘブライ語版『トーテムとタブー』への序文」(1930年) 著者はヘブライ語を理解せず、ユダヤ教を信仰せず、民族的理想も共有していないが「それでもなお、みずからの民族への帰属性を否認したことはついぞなく、またじぶんの特性はユダヤ的であると感じており、これをちがったふうに感じたいと願うこともない」。「民族同胞とのこうした共通点をすべて放棄しているのにどこがユダヤ的なのかと尋ねられたら、まだひじょうにたくさんのことがある、おそらくもっとも重要なこと[Hauptsache]がと答えるだろう。しかし、この本質的な点[Wesentliche]が何であるか、著者はまだ明確な言葉で捉えることはできないかもしれない。それはいずれきっと科学的洞察にとって近づきうるものとなるであろう」。 読者のだれひとりとして著者のこのような心情[Gefühlslage]に容易に身を置くことはできないだろう。著者は前提なき[vorausetzungslose]科学が「新しいユダヤ精神」[Geist des neuen Judentums]に疎遠な[fremd]ままにとどまるはずがないと確信している。
その見解によれば、「患者が分析家のいうことに同意すれば、それはまさにわれわれの解釈が正しい[recht]ということであり、もしまた患者がわれわれに反対すれば、それはただたんにかれの抵抗のひとつのしるしにすぎない、つまりわれわれはやはり正しい」(“Heads I win, Tails you lose.”)。
ところで、数ある防衛機制のうち、幼時に選択された防衛機制は類似した状況で反復される。これは「有効期限をこえてもなおあとまでのころうとする社会制度」と同じ「幼児症」といえる。「道理は不合理となり、博愛[いい法律]は責苦[悪法]になる[Vernunft wird Unsinn, Wohltat Plage.]」(『ファウスト』第一部第四場)。
このような「エスの抵抗」は、「リビドーの粘着性」(「心的な不活発さ」「躊躇」)に帰される。リビドーの粘着性が大きい患者のばあい、分析経過は必然的に緩慢になる。これとは逆のケースもある(「これは造形美術家が堅い石で製作したり柔らかい粘土で製作したりするばあいにそれぞれ感じるのではないいかとおもわれるようなちがいである」)。後者のタイプのほうが分析の効果が乏しい(「悪銭身につかず[Wie gewonnen, so zerronnen.]」)。加えて、リビドーの可塑性が摩滅してしまったような疲弊型がある。
女友達に贈る宝石にメッセージを添えた際、「für」の代わりに「bis」と書いてしまった。フロイトの自己分析によれば、「für」のくり返しを避けようとするあまり、ドイツ語の前置詞と同じ綴りのラテン語「bis」(もう一度)を呼び出したのだ。アンナ・フロイト(最晩年の著作にちょくちょく登場)は、父が過去に一度、同じ女性に宝石を贈ったことがあることを想起させた。お気に入りの品を贈りたくないという欲望が抑圧されており、それが失錯行為にあらわれたのだ。「手放すことに多少ともつらいを思いをしないようなプレゼントをプレゼントと言えるだろうか」。「この誤りは、この素材がとびきりのものでなかったならば起こりえなかったものなのである」。原題は Die Feinheit einer Fehlhandlung。