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「処女性のタブー」

*「処女性のタブー」(1918年)

 「『愛情生活の心理学』への諸寄与」第三部。

 未開社会における初夜以前の破瓜の慣習は、新郎を処女のタブーから免れさせるためである。処女性のタブーを説明する三つの説。

(1)血液タブー。これは殺人の欲望から身を守るためであり、月経のタブーも同じ。
(2)未知への不安。
(3)性交じたいのタブー。未開人が性的に奔放であるという考えは誤りである。「女性にたいする根源的な畏怖心」があり、これは去勢コンプレクスに由来する。

 以上の説明はいずれもふじゅうぶんである。

 性的に満足しても夫にたいして攻撃的な女性の症例は、初回の性交が疼痛にもまして自己愛的侮蔑(die narzißtische Kränkung)を招くことをしめしている。

 幼児期以来の父または兄弟へのリビドー固着(夫は父の代理にすぎない)が強いと、初回の性交における肉体的な満足に心理的満足がともなわない(不感症は文明社会における性的禁止に由来するだけではない)。

 最年長者などの父親代理人に破瓜をさせる未開社会の慣習(中世の初夜権)はこのいみでは理に適っている。

 初回の性交で、女性のうちに女性的な欲望とは異なる古い欲望がめざめる。「ペニス羨望」に由来する男性への同一化だ。これは父親への愛着と子供願望による女性的アイデンティティの獲得に先立つ「女性の男性的時期」である。新郎のペニスを切断してじぶんのからだにつけたいという内容の夢も、「解放された女性たち」の文学も、これによって説明可能。フェレンツィによれば、このような女性の男性敵視は古生物学的な両性分化の時期に発する。

 「女性の未完成な性欲が、女性にさいしょに性交を教える男性において爆発」し、女性は「破瓜されたことの復讐」におもむく。初婚より再婚のほうがうまくいくのはそのためだ。『処女毒』『ライゼンボーク男爵の運命』はこの事実を見抜いている。ヘベルは『ユーディトとホロフェルネス』における「太古の動機」(斬首=去勢)をかぎつけ、この題材をそれほんらいの形態に戻した」(聖書では処女ではなく未亡人となっている)。

 破瓜は男性への隷属をうみだすと同時に男性への敵意という「原始的反応をよびおこす」。エディプス・コンプレクスをこじらせている女性がさいしょの夫に縛られたままなのは愛情ゆえではない。男性への復讐を完遂できず、最初の夫と別れられないのだ。かのじょは無意識的な復讐欲動にとらわれつづけている。
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『精神分析入門』

*『精神分析入門』(1916-1917年)

 外傷神経症をはじめ、時局への言及がそこかしこに。袂を分かった論敵へのあてこすりもちらほら。そして濃密な系統発生的ヴィジョン(ベルシエ『自然の恋愛生活、恋愛の進化史』への言及もある)がこの講義を特徴づける。

 「夢の研究は神経症研究のもっともよい準備となるばかりでなく、夢そのものがじつに神経症的な症状であり、しかもすべての健康なひとたちにみられる神経症的な症状であるという点で、われわれにとってはかりしれない利益をもつ」。失錯行為から入って、夢へとつなぎ、おもむろに神経症の問題に切り込むという入念な構成。
  
 聴衆の精神分析批判を先取りして提示し、それに反論していくというスタイルは、対話的というよりモノローグにちかい。 

 エディプス・コンプレックスが殺意であり、欲動が性的であり、夢が無意識であるというのは誤解である。エディプス・コンプレックスは父への敵意とやさしい愛情とのアンビヴァレンツである。また、「精神分析は性の欲動を自我欲動から峻別することのうえにうちたてられた」。さらに、夢とは無意識に由来するだけでなく、意識由来の成分(日中残滓)もふくむ。

 日中残滓をその一部とする夢の潜在思想は、夢の素材にすぎず、それを顕在夢に加工する「作業」こそが「夢の唯一の本質」である。夢は潜在思想という素材をつかって太古的な欲望を覚醒させる。すでに『夢解釈』でとりあげられていた「1フローリン50クロイツァーで芝居の切符3枚」という夢では、友人の婚約の知らせが結婚を急いだことへの後悔をうみだしたが、この後悔だけでは夢を形成するのにじゅうぶんではなく、この後悔が結婚のさいに何が起こるのか見てみたいというふるい欲望を呼び覚ますことではじめて夢が形成された。芝居を「みたい」という欲望は、両親の性交をみたいという欲望に帰着する。夢において充足された欲望は、「昔の勝利」を「最近の敗北」に置き換える。夢の形成において、無意識的欲望は「資本家」、日中残滓は「経営者」のやくわりをはたす。

 狼男の分析と並行しておこなわれていた本講義。「根源的空想」(原幻想)については「精神分析理論にそぐわないパラノイアの一例の報告」にすでに言及がある。「夢は夜になって欲動のはたらきが自由になったために使用できるようになった覚醒夢である」。空想は「保護林」「自然保護公園」になぞらえられている。

 不安は本講義の最大の主題のひとつ。不安は「あらゆる重要な諸問題の結節点」であり、出産時の不安の反復である。ひとは不安を感じる「がゆえに」逃げるのではない。不安は二次加工によって事後的に手近な恐怖症(死、狂気、卒中……)に結びつけられる。「一般に症状というものは、不可避な不安の発生を免れるために形成される」。

 不安夢は検閲による歪曲を被らないことがある。「不安夢はいわばむきだしの欲望充足である」。ただし、忌まわしい欲望の充足である。検閲のかわりに不安があらわれる。不安夢において問題になっているのは欲望の強さにたいする不安である。夜警も眠っている人を目ざめさせることがある……。

 以下、ランダムな落ち穂拾い。


 「あらゆる人間の素質は質的には同種のものだが、量的な関係だけがちがう」。それゆえ心的過程を力動的にとらえるだけではなく、経済論的にとらえるひつようがある。神経症選択は旅芝居の一座の配役に似る。


 「性愛は個体をこえて個体を種にむすびつける生体の唯一の機能」。転移神経症は、自己保存欲動と性欲動の葛藤、すなわち「独立の個体としての自我という一つの地位と、世代系列の一環としての自我というもうひとつの地位との抗争」である。


 「転移は、樹木でいえば、木質と皮質のあいだにあって、組織が新生され、樹幹が太さをくわえてゆくもととなる形成層に比すべきものである」。また、「父親への転移は、分析家がリビドーをわがものにしようとして戦う戦場にほかならない」。


 精神分析運動における分裂のメカニズム:「真理の一部をとりだしてそれを全体におきかえ、その一部分の真理のために、これにおとらず真理であるそれ以外の部分を論難すること」。


 「わたしたちの患者の身うちでも教養のない人たちは、目に見えるもの、手に触れるものだけを、なかでも映画でみるような行動ばかりをひどく重んじたがり」、talking cure に懐疑的である。


 夫の浮気を密告する手紙の事例、時計の音=クリトリスの鼓動、クッションの事例、発達段階と古代の定住、リビドーの粘着性、「上部構造」としての精神分析……エトセトラ、エトセトラ。

 夢における象徴の列挙にも不必要なほど頁が割かれている。

「『詩と真実』における幼年時代の一記憶」「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」他

*「精神分析に関わるある困難」(1917年)

 ハンガリーの雑誌への寄稿。

 「貯水槽」あるいは「原形質小動物」(偽足)としての自我。

 人類の「普遍的自己愛」が科学的研究により受けた侮辱:
 (1)宇宙論的侮辱(コペルニクス)
 (2)動物学的侮辱(ダーウィン)
 (3)心理学的侮辱:「自我はじぶんじしんの家の主人ではない」(精神分析)

 精神分析を受け入れることの「困難」はここに由来する。

 無意識の概念はショーペンハウアーによって先取りされているが、精神分析はそれを個々の人間において証明した。


*「『詩と真実』における幼年時代の一記憶」(1917年)

 複数の患者の同様の事例をもとに幼児期のゲーテの仕業を普遍化している(鸛が窓から運んできた弟を同じ窓から出て行かせる)。


*「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」(1917年)

 <糞便(金銭、贈与)=子供=ペニス=男性>の等式(「器官による類比」)に基づき、いかに欲動が転換(umsetzen)するか。

 ペニス羨望は、子供への欲望(ペニス=糞便経由で子供にもリビドーが備給される)、もしくは男性への欲望(男性をペニスの付属物と見なす)によって[心的に]「代理」される。ペニス羨望における「ナルシス的男性性」の一部分が、このような経路で女性性に移転して部分的に充足される。男性にむけられた対象愛は、もとからのナルシシズムと共存しており、強迫神経症においては、肛門期への退行によって、糞便=ペニスへの古い欲望に回帰する(ペニスの「原型」であり、「最初のペニス」としての「糞の棒」が腸=膣を刺激する。強迫神経症はこの過程を逆向きにたどる)。

 そもそも「排便に際して、こどもはナルシシズムと対象愛の二つの態度のあいだでさいしょの決定をおこなう。従順に糞便を放棄し、それを『捧げもの』として愛する人に差し出すか、それとも、自体愛的な満足のために、のちにはじぶんじしんの意志の表明のために、保持しておくかのどちらかである。後者がえらばれることによって、反抗(わがまま)が形成される[性格特徴の転換]」。

 こどもにとって、糞便の一義的な意味は「贈り物」であり(このことは転移関係において確認される)、のちにすぐれて贈り物を代表する金銭、または子供という意味を担わされる。子供への欲望を、肛門愛的と性器愛(ペニス羨望)を連結する。

 男児においては、「女性にペニスがないことを発見するとき、ペニスが分離可能なものとして認識され、最初は体の一部であったがそれを放棄しなければならない糞便との類比関係に置かれる」。こうして肛門期的反抗が去勢コンプレクスに移行する。また、子供の誕生に際して、「贈り物」としての子供と糞便の類比が得られる。

 かくして、「器官の一致は幾重もの回り道を経た後に無意識的な同一物として心的なもののなかに再び現れる」。フロイトは以上の過程をいっしゅの路線図に描いている。

「ある幼児期神経症の病歴より」

*「ある幼児期神経症の病歴より」(1918年)

 フロイトのいわば総決算的症例。とはつまり、たんに五大症例の掉尾を飾るといういみにおいてのみならず、恐怖症(ハンス)、転換ヒステリー(ドラ)、強迫神経症(鼠男)、自己愛神経症(シュレーバー)というこれまでの症例で扱われた病理のすべてがこの症例のうちに文字どおり圧縮されているといういみでそうなのだ。

 去勢不安において抑圧された同性愛が、一方で狼不安(恐怖症)として、一方で腸障害(転換ヒステリー)としてあらわれる。恐怖症は、聖書についての「思考」を通じて(キリスト=男性への同一化)強迫的信仰へと移行する(父の代理がトーテム動物から神へと移行)。さらに自己愛神経症がほのめかされる。

 同時期の「転移神経症概観」において、フロイトは各神経症の継起が系統発生的な発達を反復しているというヴィジョンを提出している。それらの神経症は、人類がたどった各時代の太古的な記憶として、『ある幻想の未来』で描写されたローマの遺跡さながら、ひとりの人間のなかに層をなして共存している。本症例はいわばこのヴィジョンを確認しようとしている(上記論文の図式との厳密な合致はのぞむべくもないけれど)。

 成人後の神経症が幼児期神経症に先立たれていることが本症例の特徴であると言われるが、もっとあとのくだりでは、あらゆる神経症は幼児期神経症に先立たれているのだと一般化されている。

 フロイトの分析は狼男を治癒に導かなかった。本症例は、進行中の神経症を無視して、過去に罹患した幼児期神経症だけを「構築」(≠想起)をとおして分析しようとしている。
 
 フロイトによる「構築」を編年的にあとづけてみれば、

(4箇月)肺炎
(1歳半)マラリアにかかった際に原光景を目撃
 拒食の際、肺炎で死にかけたことを聞き、死の不安が起こって過食に。
(2歳半)グルーシャの姿勢による原光景の喚起。その際、放尿によってグルーシャを「誘惑」するが(父への同一化)、去勢威嚇をうける。
(3歳半)姉による誘惑を拒絶。かわりにナーニャを誘惑(自慰の誇示)するが、去勢威嚇(「傷」)をうけ、肛門サディズム期に退行(父へのリビドー備給)。姉とその友達の放尿場面を目撃するが、「傷」(去勢)を否認。イギリス人家庭教師が雇われる。
(4歳)「贈り物」への期待を誘因とする不安夢。父の「贈り物」(性交)が去勢を代償とすることを理解し、去勢不安が生じる(動物恐怖)。
(4歳半)聖書の話を知り、キリスト=男性への同一化。動物恐怖は強迫信仰にとってかわられる。大便失禁(「生きていられない」)において、抑圧された母親への同一化が回帰する。
(5歳)小指の幻覚
(6歳)サナトリウムの父
(10歳)ドイツ人家庭教師(父親代理)の影響により、強迫信仰は消滅するが、その残滓が「三位一体」の強迫として回帰する。

 以下は後日譚
(18歳)淋病
(19歳)父の自殺
(21歳)姉の自殺
(23歳)分析開始


 姉による「誘惑」は「受動的な性目標」を目ざめさせたが、姉は父親の「贈り物」をめぐる競争者であったがゆえに(金銭欲によって姉の死の悲しみが相殺された)、「誘惑」は退けられねばならなかった。しかしそれはリビドーそのものの拒絶ではなく、めざめさせられたリビドーはナーニャに向かう。

 しかしナーニャの威嚇(「傷」)によって、めざめはじめていた性器愛は、肛門サディズム期に退行し(「ナーニャの拒絶によって活動を開始しかけていた性器活動が抑圧され、その時以来かれの性生活がサディズム[小動物虐待]とマゾヒズム[打たれる王子の空想]の方向へ発達していった」)、父に向かう。

 肛門期への退行によって、能動/受動という性器愛的な対立(ナーニャに性器を触られたい)は、罰されたいというマゾヒズム的体制にとってかわられ、性目標の達成を男性にもとめるか女性にもとめるかはどうでもよくなり、同性愛的傾向がうまれたのだ。

 同じ時期に姉とその友達の放尿場面を目撃するが、「排泄孔理論」(一孔説)によって「傷」(去勢)を“否認”する。

 排泄孔理論においては、ペニスが粘膜を刺激する便によって置き換えられている。排便はみずからの一部の放棄であるかぎりで「去勢の原型」をなす。「みずからのペニスにたいする自己愛的な愛着には、肛門愛の側からの関与が不可欠である」といういみで、自己愛とはすぐれて肛門期的ということができようか。

 性器愛のめざめは、グルーシャの姿勢によって原光景を喚起し(不安夢の誘因)、放尿したときにすでにみられる。

 不安夢において、父のペニスが母の膣内に見えなくなる「クロースアップ」(キノドス)によって原光景が再現されることで、ナーニャの威嚇と姉らの「傷」を結びつけざるをえなくなり、去勢の現実性が理解される。性器愛が再活性化され、「排泄孔理論」は無効化する。能動/受動は、男性的/女性的といういみで理解されるようになり、父に罰されたいという欲望は父に性交されたいというそれに翻訳され、抑圧される。父に性交されることは母親のように去勢されていることを代償とするからだ。父に「性交されたい」という欲望は抑圧されて、狼に「食われる」不安として回帰する。

 一方で女性性の抑圧は、腸障害として回帰する(「女性との同一化をあらわし、男性にたいする受動的な同性愛的態度をあらわすことができる器官は肛門域であった」)。

 夢において抑圧された去勢の現実性の認知は、小指の幻覚においてふたたび受け入れられるだろう……。

 不安夢によって、父に「罰されたい」という肛門愛的欲望は、父に「性交されたい」という性器愛的欲望に進展することなく、狼に「食べられる」不安というさらに原始的な段階(口唇期?)へ逆行するが、父親にむけられた以上三つのリビドー的欲動は共存している。

 原光景の内容は系統発生的な遺伝に由来するものである。女性たちからの去勢威嚇(「逆エディプス・コンプレクス」umgekehrten Ödipuskomplexes)が父親からの去勢不安と解されるにいたったのはそのためである。それゆえ、原光景は現実の出来事ではなく、「原空想」であったかもしれない。じっさいに起きたことは動物[シェパード]の交尾の目撃だったかもしれない。

 原光景の目撃は大便の失禁をともない、それによって両親の性交がさまたげられていた。

 世界が、浣腸の瞬間だけ破られるヴェールによって覆われているという空想は、母胎回帰願望をあらわす。便は子供として再生することをいみする。それゆえこの空想は再出生空想でもある。浣腸は父による性交をいみし、それゆえ患者は母親に同一化している。そのかぎりで再出生空想は同性愛的欲望の回帰である。この空想は原光景の反復である。「原光景は本患者の根本的な治癒条件」であり、「原光景の状況を反復することこそこの患者が治癒していく条件である」(原光景の理解、解釈が治癒の過程であるといういみだろう)。母胎回帰空想は母親への同一化によって父から性交される欲望である(「しばしば男性は、性交のさい母親に代わってじぶんが父親にたいして母親のやくわりを演ずるために母親の胎内に入りたいと願望する」)。一方、再出生空想は、母親とのインセスト願望の「歪曲法」による表現である(ペニスへの同一化)。そのかぎりで母胎回帰空想と再出生空想という二つのインセスト的空想は対立的である。

 「肛門愛的な再出生空想を原型としてかれは、みずからの欲望を太古的で象徴的な表現方法によって再現する、あるひとつの幼児期的光景を組織づけた」(原光景の解釈であるということ?)。しかし、「原光景が再出生空想の反映[ひこばえ]なのではなく、むしろぎゃくに、再出生空想こそ原光景に由来するものであるようにおもわれる」。つまり原父殺害とおなじような「事実」性を原光景に帰したいのであろう。

 男性性と女性性のアンビヴァレンツは、両性性理論にではなく、自我とリビドーの葛藤に帰されねばならない。アドラーは男性性を抑圧する側の審級と同一視したが(男性的抗議)、じっさいにはぎゃくのケースが大多数である。

「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」ほか

*「無常」(1916年)
 「戦争と死に関する時評」および「喪とメランコリー」のいわば姉妹篇。「戦争はわれわれが愛したおおくのものをうばい、われわれが恒久的とかんがえていたおおくのものがもろくもくずれさることをしめした。われわれ人間のリビドーは、その対象に事欠けば欠くほどますます強烈に残されているものにしがみつき、こうして祖国愛、隣人愛、共同体にたいする誇りが急激にたかまってきたことはなんらおどろくにはあたらないことである」。


*「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」(1916年)

 『リチャード三世』のグロースターは、もって生まれた容姿のみにくさを嘆くあまり、悪事にはしろうとする。女性は男性に生んでくれなかった科で母親を憎む。いずれも自己愛が傷つけられたことへの倍賞請求である。

 欲求不満(Versagung)は神経症の病因になる。それでは、願望が成就された瞬間に神経症を発症するケースはどう説明すべきであろうか。

 外的な欲求不満(充足対象の喪失)と内的な欲求不満(自我による充足対象の剥奪)を区別することで説明がつく。前者は単独では病因たりえず、後者は前者という条件を俟ってはじめて機能する。

 願望が成就されたときに発病するケースにおいては、内的な欲求不満が単独で(勝手に)機能している。空想が実現不可能なものであるかぎりで自我は空想を許容するが、実現可能になると[抑圧を維持できなくなって]自我との葛藤を生じさせる。願望成就の瞬間に発症するケースにおいては、その実現可能性を示す信号が外的な変化によってもたらされている。

 マクベス夫人はこうしたケースに該当する。たとえば、犯罪をおかすまで抑圧していた女性性が回帰した(世継ぎを産む義務が不妊の事実とのあいだに葛藤を生じさせる)という説明が可能であるが、フロイトはかのじょのケースに結論をくだすことを控えている。その理由は、シェイクスピアがホリンシェッドの原典を時間的に圧縮したために、性格の変化があまりにも急激であること、および、シェイクスピアにおいてはひとつの性格が二人の人物によってわかちもたれていることがおおく(マクベスの不安を夫人が実現する)、そのためマクベス夫人の性格をは夫のそれと込みでとらえるひつようがあることである。

 ついでイプセンの『ロスメルスホルム』のヒロイン、レベッカが考察される。社会的な野心から近づき、その妻を死においやったロスメルからの求婚をレベッカは拒絶する。かのじょの拒絶は、エディプス・コンプレクスに由来する。かのじょは養父の愛人であったが、じつは養父が実の父であったことをおしえられる。ただし、求婚を拒絶したのはこの事実を知るまえである。近親相姦の事実は、それいぜんにかのじょがいだいていた無意識的なエディプス的殺意を確証しただけである(「一般的な空想が現実になった」)。かのじょの動機は、「表面的な動機」が「より深い動機」をあらわにするという「重層的動機づけ」によって規定されている。
 若い女性が家政婦なり家庭教師なりとしてある家庭に住み込むと、主人の妻が死に、じぶんが主人の後妻になるという白日夢を「かならずといってよいほど」いだく。これはエディプス・コンプレクスに由来するものであり、レベッカはまさにこのことを証明している。

 さいごに、無意識的なエディプス的罪悪感からのがれるためにじっさいに犯罪をおかす若者のケースが考察される(「自我とエス」でとりあげなおされている)。父殺しと母子相姦という二大罪悪がもたらす罪悪感の重さにくらべれば、ほかのどんな犯罪のもたらす罪悪感もずっと楽なのである。罪悪感から罪に走るケースは『ツァラトゥストラ』にもほのめかされているとおり。

 系統発生的な観点はこのテクストでも色濃い。

 「人類は遺伝的な魂の力としてあらわれてくるというべき良心を、エディプス・コンプレクスによって獲得した」

 「幼児期のあいだを病弱ですごしたのちに起こる性格の歪みと、苦しみにみちた過去をもつ民族のふるまいとの明白な類似性」

「転移神経症概観」

*「転移神経症概観」(1985年)

 「メタ心理学」の掉尾を飾るはずであったもうひとつの「心理学草稿」。後半部で展開されるトンデモな仮説ゆえフロイト最大の奇書とされる。 

 「予備的考察」と題された前半部は、一連のメタ心理学論文の無味乾燥な総括。「抑圧」「逆備給」「代替・症状形成(岩波版「全集」309ページでは「象徴形成」と誤記)」「性機能との関係」「退行」「素因」という要素が、不安ヒステリー、転換ヒステリー、強迫神経症のそれぞれにそくして考察される。

a)抑圧
 不安ヒステリーにおいては最低限度の成功、強迫神経症においては一時的な成功、転換ヒステリーにおいては全面的な成功。

b)逆備給
・不安ヒステリー:逃避→代替表象→周辺の表象
・強迫神経症:抑圧→反動形成(アンビヴァレンツ)→論理作業。第一段階以外は不安ヒステリーと共通。
・転換ヒステリー:逆備給=欲動備給

c)代替形成と症状形成
・転換ヒステリー:代替=症状
・不安ヒステリー:代替=抑圧されたものの回帰
・強迫神経症:代替(逆備給)≠症状(抑圧されたものの回帰)

d)性愛機能との関係
 抑圧された追求は、リビード的追求と自我の追求をともども含む。自我の追求は、抑圧されたリビドーの蠢きが成分の一部を自我の追求に貸しあたえ、自我の追求にエネルギーを転移させたのち、自我の追求を抑圧にひきずりこむことでなされる。

 転換ヒステリー、強迫神経症においては抑圧は性愛機能にむけられる。ただし、強迫神経症においてはそれほど明確ではない(抑圧は退行によって起こり、前段階全般を対象とするので、リビドーにも自我にも関係するということのようだ)。不安ヒステリーにおいてはより不明確。性愛欲動の要求がつよすぎるために防衛がおこる例があるとされる。

e)退行
 不安ヒステリーにおいては観察されない(罹患の年齢が早期だから)。転換ヒステリーにおいては、自我の退行がある。前意識と無意識が分化する以前への退行であり、言語と検閲がない時期への退行であるとされる。退行は[抑圧にではなく]症状形成と抑圧されたものの回帰に奉仕する。強迫神経症においては、リビドーの退行がある。退行は[抑圧されたものの回帰にではなく]抑圧に奉仕する。

f)素因
 「退行は、自我発達あるいはリビドー発達のいずれかのある固着点までさかのぼり、この固着点が素因を表現している」。

 「神経症もまた、人間の心の発達史にかんする証言をおこなっている」という観点に立って、神経症の「系統発生的素因」の探究が試みられる。

 「リビドーの発達史は自我の発達史とくらべて[系統発生的な]発達のより古いぶぶんを反復している」。すなわち、リビドーの発達史は脊椎動物の発達史を反復し、自我の発達史は人類の発達史を反復する。

 神経症は、発症年齢のひくいほうから、不安ヒステリー→転換ヒステリー→強迫神経症→早発性痴呆→パラノイア→メランコリーと系列化される。発病が遅ければそれだけ早期のリビドー段階に退行する(自己愛神経症についてはこのかぎりではない。早発性痴呆は自体愛に、パラノイアは自己愛的な同性愛的対象選択に、メランコリーは対象への自己愛的な同一化に退行する)。

 この系列が、フェレンツィの構想にならい、系統発生的な系列に重ね合わせられる。たとえば不安ヒステリー→転換ヒステリー→強迫神経症という流れは、氷河期の各段階への退行である。「現在は一部のひとだけがその遺伝的な素質と新たな獲得によって置かれている状態に、その当時はすべてのひとがあった」。一方で「神経症はこうした退行にたいする反抗の表現でもあり、古い原始的なものと新しい文化的な要求のあいだの妥協の産物でもある」。

 以下、フロイトじしんが「科学的空想」とよぶ思弁が展開される。
(1)氷河期の到来は人類に不安をもたらした。生存を脅かされた人類は対象への備給を自我にふりむけ、不安に転化させた。「子供たちの一部は氷河期のはじまり以来の不安気分をそなえており、それに唆されてみたされないリビドーを外部からの危険として扱う」。
(2)氷河期の進行とともに、生殖の制限の義務がうまれ、倒錯的な性的満足への退行が生じる。転換ヒステリーはこの過程の反復である。転換ヒステリーに女性が多いのは、生殖の制限の影響をちょくせつ被る性だからだ。この時期にはまだ言語は獲得されておらず、前意識系が構築されていない。
(3)前性器的体制への退行によって、知的活動が優位に立つ。言語という魔術(思考の全能)を操る男性が女性を支配する。かくして原父の権威の源泉は氷河期におけるサヴァイヴァル術に帰される。強迫神経症はこの時代の反復である。知性によって性愛を統御しようとすることは欲動の抵抗をうみ、「それによってリビドーの葛藤のために生命エネルギーが衰え、些細な問題に遷移された衝動だけが強迫症状としてのこされる」(?)。これが原父殺しに対応する。
(4)殺害された原父は、息子たちの男性性を剥奪する。早発性痴呆におけるリビドーの消失(自体愛への退行)はこの段階を反復している。
(5)母親の庇護によって原父の去勢から守られていた末子たちが同性愛的な絆で結ばれ、社会をうみだす。パラノイアは、このような同性愛への防衛とその昇華の過程を反復している。
(6)躁鬱病は、原父へのアンビヴァレンツを反復している。
 というわけで、転移神経症は(1)~(3)つまり家父長制的な文化段階の形成を反復し、自己愛神経症は(4)~(6)の社会的な文化段階の形成を反復する。このいみで神経症は「文化的獲得物」である。

 フェレンツィは、早発性痴呆と去勢のアナロジーにかんしてのみ突っ込みを入れている。生殖を断念したはずの原父がどのように息子たちを生み、息子らの同性愛的な共同体がどのように子孫を残せるのかという点についてはフロイトじしん矛盾をみとめている。ホモソーシャルな段階の反復であるはずの自己愛神経症が女性にも多いことの説明としては、太古の女性のようすが伝わっていないことや人間の根源的な両性性をほのめかしてお茶を濁すに終わっている。

 「この系統発生的な要因についての理解はこれでおわりではなく、わたしたちはその端緒に立っているにすぎない」「わたしたちがまだ知らない新しい獲得物や影響の存在する余地が残っているのである」 

 フロイトの系統発生的観点を評価するキノドスでさえ、このテクストへの深入りは避けている。

「精神分析理論にそぐわないパラノイアの一例の報告」ほか

*「精神分析理論にそぐわないパラノイアの一例の報告」(1915年)

 パラノイアは同性愛への抵抗である。また、迫害者とみなされるのは、患者が愛しているかかつて愛していた人である。それゆえ、迫害者は同性であるはずだ。「わたしたちはパラノイアが同性愛によって条件づけられているという命題を普遍的に例外なく妥当するものとして立てているわけではない。けれどもそれはただ、わたしたちの観察例が十分な数に達していないからにすぎない。つまるところ、いくつかの相関関係から言って、この命題は普遍性を要求することができるかぎりでしか十分な意義をもたない命題の一つである」。しかしここに、親しい男性による盗撮被害を訴える女性パラノイア患者の症例がある。かのじょは愛する男性を迫害者に仕立てることで、男性への愛情に抵抗しているようにみえる。くだんの命題は放棄されねばならないのだろうか。
 二度目の会見の結果、患者は男性が母親のようなかのじょの上司と通じ合っており、じぶんたちの情事について報告しているとおもいこんでいることがあきらかになった。母親的な上司と通じているとされることで、男性は父親のポジションをあたえられる。この妄想をうみだし、男性への愛情を阻止しているのは「母親コンプレクス」(「良心のやましさ」)である。この患者は父親なしに長年過ごしてきていた。母親コンプレクスにおいて問題なのは、現実の母親との現在の関係ではなく、「太古的な母親像」との幼児期の関係である。パラノイアは母親を迫害者に仕立て、患者のリビドーを男性にむかわせるが、同性愛は、偶然の出来事(シャッター音をおもわせる物音)を利用して男性を迫害者に仕立てることで生き延びる。盗撮の妄想は「原空想」(原光景)に由来する(「狼男」症例で詳述されることが予告される)。父親のポジションに置かれた男性と関係することは、患者じしんを[盗み聞きされるがわの]母親のポジションに置き(母親への同一化)、あらたに盗み聞きするがわの主体が召喚される。「偶然の」物音は、両親の性交がたてる物音あるいは盗み聞きしている子供が立てる物音の反復として、この空想を現勢化する誘因となった。これはパラノイアによくある事後的によびだされ、遷移された「記憶」(「錯誤想起」)であり、クリトリスをタップされたときの感覚が「投射」されたものである。ドラをノックする音で覚醒するという別の症例における夢も同じ感覚の投射である(『精神分析入門』第17講に類似の症例がある)。クリトリスの「散発的収縮」は、性交がおこなわれなかったことをしめし、男性にたいする拒絶は「良心のやましさ」だけではなくこの不満足にも由来している。
 この症例は、妄想形成によって、ふつうのパラノイアのように同性愛から身を守るのではなく、異性愛から身を守るという「前進」をしめしている。このような「前進」は神経症においては範例的である。神経症の葛藤は症状形成によって完結せず、症状を維持しようとする努力と症状以前の状態を修復しようとする努力との闘争に引き継がれる。後者の努力(ユングのいう「心的惰性」)は、早期幼児期における諸欲動と諸対象との結合に由来し、この結合が欲動の発展を阻害する。「心的惰性」なる発想は「固着」概念の出来のわるい表現にすぎない。

 はじめて読んだが、「狼男」症例の序曲ともいえる読みがいのある論考だ。

*「ある具象的強迫観念との神話的類似物」(1916年)
 神経症者の「強迫イメージ」とギリシャ神話におけるあるイメージの類似。

*「ある象徴と症状」(1916年)
 帽子のシンボリズム。

『性理論のための三篇』第3版

*『性理論のための三篇』第3版(1915年)

 「幼児の性探究」「リビドー説」のセクションが追加されたほか、発達段階論と系統発生論の導入が第3版をとくちょうづける。

 ナルシシズムという術語の初出となる第二版(1910年)の脚注に、さらに同性的愛着の「根源性」、「前史的時代」におけるその優位性についての言及がつけ加わる。

 古代人は欲動そのものを重視し、現代人は欲動の対象を重視する。それゆえ古代人には対象の尊卑の観念がないのに対し、現代人は高尚な対象の名のもとに欲動そのものを許容する。(第2版)

 足フェチは性器を対象とする窃視欲動(上昇運動)が途中でおしとどめられたもの。

 「性愛の発展を制限する力——嫌悪、羞恥、道徳性——は、他方においては、人類の精神発生史において性欲動が経験してきた、外界からの抑制の歴史的な残滓とみなされなければならない」

 孤独な性探究は、のちに幼児が社会的に独り立ちするための第一歩。

 口唇愛と食人的同一化。

 男性化/女性化というカテゴリー:(1)能動性/受動性(2)生物学的(3)社会学的。 

 性活動の開始時期は第3版で1歳から2歳へと変更されている。

 倒錯も精神分析が可能である。

 偶然的な要因は体質的な病因とおなじくらい重要である(「相補系列」)。ただし、早期幼児期の経験(「素因的」)のほうが、のちの外傷体験(「決定的」)よりも重要である。
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