fc2ブログ

「戦争と死についての時評」

*「戦争と死についての時評」(1915年)

 前半のパートは 「戦争がもたらした幻滅」と題されている。

 「こんな戦争があろうとは信じられないような戦争がいまや勃発し、そして——幻滅をもたらした」。第一次大戦はそれまでのあらゆる戦争の「残酷で、激烈で、情け容赦のない」性質を極限化した。同時に「この戦争はまた、ほとんど理解できないような現象を出現させた。文明化された諸民族が、互いに知り合い、理解し合うことがあまりにもすくないために、互いに憎しみと嫌悪をいだいて対抗しさえするようになるという現象である」。とくていの偉大な一文明国にこの情動が向けられ、「野蛮」とみなされている。第一次大戦は、文明と野蛮の対立ではなく、文明国どうしの対立を人類に歴史にもたらした。

 ところで、「人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動の蠢き[Triebregungen]にあり、この欲動の蠢きは基本的本性[die elementarer Nature]に属するものであり、すべての人間において同じであり、あるしゅの根源的欲求[ursprünglicher Bedürfnisse]の充足を目指している」。欲動はアンビヴァレンツを特徴とし、それじたいでは善でも悪でもない。利己的な欲動は、性愛とむすびつくことで愛他的で社会的なものになる(内的強制)と同時に、教育による強制(外的強制)によって善い欲動へと転換させられる。このうち、内的強制は、人類史の過程でもともと外的強制であったものが内面化したものである(系統発生論的ヴィジョン)。かくして文明社会において、欲動は悪とされ、その実現が不可能になった。「文明社会は、多くのひとびとを文明に服従させはしたが、といってかれらが本心から服従したわけではなかった、このような成果に気をよくして、利益社会は不用意にも道徳的要求を可能なかぎり高くかかげてしまい、そのためその成員を欲動的素質からいやがうえにも遠ざかるように強いてしまった」。というわけで、文明人は心理学的に「分不相応な生き方」を強いられたいうなれば「偽善者」である。「現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実を範として生きようと企てようものなら、その文明は根本的な変革をこうむらねばならないのである」。第一次大戦が明るみに出したのは、この事実だ。戦争の残虐は、ほんらい「幻滅」の対象でもなんでもない。

 「民族や国家といった大きな人間集団がたがいにたいする道徳的制限をなくしたことは、文明の持続的圧力をしばし逃れることや、差し止められていた欲動につかのまの充足を認めることを促進した。その際、かれら[「世界市民」=文明国]の民族性の内部にある相対的道徳性には、おそらくいささかの破綻をも生じなかった」。戦争は欲動の蠢きを全面的に解放するのではなく、国家の暴力装置(ちなみにウェーバー『職業としての政治』の刊行は本論文の5年後である)への従属と引き換えに部分的になしとげるといういみであろう。

 「原始的心性はあらゆるいみにおいて不滅である」。夢において「入眠と同時にわれわれすべては苦労してえられた道徳性をあたかも衣服のようにぬぎすて――、翌朝、ふたたびそれを身につける」。戦争もまた、原始的な心性への「つかの間の」「退行」である。「戦争はわれわれから、よりあとから形成された文化的な層をはぎとり、われわれのなかにいる原始人をふたたび出現させる」。
 この戦争において「もっとも優秀な頭脳さえ洞察の欠如、頑迷さ、徹底的な議論の忌避、容易に反駁されうる主張にたいする無批判な追随[「論理的盲目」]をしめした」ことは、集団心理への洞察へとフロイトを導いた。「多数の人間、何百万という人間があつまると、あたかも個人の道徳的獲得物のすべてが抹殺され、もっとも原始的で古く、そしてまた粗野な心的態度のみが残ったかのようである」。
 「なぜ個々の民族が互いに軽蔑しあい、憎しみ、嫌悪しあうのか。しかも平時においてすらそうであり、さらにすべての国民が例外なくそうであるのはなぜなのか。――実のところこれらは不可解である。わたしはその点について答えることができない」。けだし民族の形成そのものが、情動の充足を「合理化」するための「利害共同体」なのである。
 
 「死にたいするわれわれの態度」と題された後半のパートにおいては、戦争が万人の抱く不死への無意識的確信を揺るがせるとされている。文学や芸術(「英雄精神」)はみずからの「生の損傷にたいする代償」であり、未開人は亡霊の観念によって、宗教は来世の観念によって死を否認する。「殺すべからず」という戒めは、原始人類による殺戮の表現であり、情動の充足にたいする反動形成であったものが、愛してもいない未知の人にもおよぼされるようになったものだ。「われわれの無意識的欲望の蠢きから判断すれば、われわれじしんもまた原始人と同じく殺人者たちの一味である」。戦争はこの事実をあかるみにだす。

 「われわれは膝を屈して戦争に順応する存在であってはいけないのか。われわれは死にたいする文明的な考えによって、心理学的には分不相応に生きてきたことを認め、改心して、真実を告白すべきではないのか。現実においても、われわれの思考においても、死にたいしてふさわしい席をあけてやり、これまできわめて入念に抑え込んできた死にたいする無意識の考え方を、もうすこしあらわにするほうがよいのではなかろうか」。こうした選択肢には留保を置かざるをえないとしても、すくなくとも、生をふたたび耐えうるものにするというメリットをもつ。「生に耐えうることは、生きとし生けるものの第一の義務でありつづけている。幻影は、これを妨げるかぎりで無価値である」。「平和を維持しようとそ欲するなら、戦いの準備をととのえよ」という格言は、「生に耐えようと欲するなら、死の準備をせよ」と言い換えるのがふさわしい。
スポンサーサイト