「抑圧の本質は意識からの退け(Abweisung)と遠ざけ(Fernhaltung)においてのみ成り立つ」。「無意識」論文の冒頭で確信されているごとく、欲動の代表を廃棄したり(aufheben)、根絶したりする(vernichten)のではないということがキモである(そうではなく、意識になることを妨げる[sie vom Bewußtwerden abalten]ことである)。意識と無意識の分離以前においては、「対立物への逆転」、「自己自身への向け変え」という機制が欲動の蠢きへの「防衛」手段としてえらばれる。
抑圧は、原抑圧、本来の抑圧、抑圧されたものの回帰(症状形成etc.)の三段階からなる。
原抑圧においては、「欲動の」[岩波版では脱落している]「心的な(表象の)代表」[der psychischen (Vorstellungs-) Repräsentanz des Triebs]が意識への受け入れ[Übernahme]を拒まれる[versagt wird:岩波版では「不首尾に終わる」]。この段階では欲動と代表(表象)はむすびついている(「固着」)。
法王の下に全イタリアを結集させんとするモーセ的野心に燃えるユリウス2世と「大きなもの(Großes)、強力なもの(Gewaltiges)、なかんずく広大な世界(das Große der Dimension)」への志向を共有しつつ、ミケランジェロは法王の企ての失敗を見抜いていた。そしてそれが彫刻家じしんの「宿命」であることをも見抜いていた。ミケランジェロがこのようなモーセ像を法王の霊廟に捧げたのは、故人への非難であると同時に「じぶんじしんへの警告のためであり、この[自己]批判によっておのれの本性を超越する(über die eigene Natur erheben)ためであった」。
原始ホルドは「社会」以前である(さいしょの社会は原父殺し以後の「男性結合体」)。それゆえそれを「社会」として思い描くことはできない。「社会」としては純粋な虚構としてしか思い描けない。原父殺しが「事実」であるのは、とりあえず「思考の万能」を信奉する未開人や神経症者にとっての「心的現実」であり、それゆえその実体はあくまで原父の死の「欲望」である。とはいえ、未開人は神経症者ほど完全に思考と現実を同一視していないので、原父殺しは「歴史的事実」であった可能性もありうる。とおもうと、神経症者の現実にも一片の「歴史的事実」がふくまれていると前言が翻される。「いま現在、過剰な道徳の圧迫のもとにいる強迫神経症者たちが、さまざまな誘惑の心的現実にたいしてもっぱら身を防禦し、衝動をかんじたというだけでみずからを罰していると考えるのはただしくない。そこには歴史的現実も一要素となって入り込んでいる(Es ist auch ein Stück historischer Rearität dabei.)。これらの人びとは、その幼少時にほかならぬ邪悪な衝動をいだいたのであり、幼児の無力さにおいてなしうる範囲で、この衝動を実行に移していたのである」。「したがって、原始人においてもうたがいなく形成されていた心的現実がさいしょは事実的現実(faktischer Realität)と一体となっており、あらゆる証拠からして、原始人はやろうと意図したことを実際に行ったと想定するなら[あくまで「想定」であり、「行った」とは言っていない]、原始人と神経症者の類似はさらに根本的なものとして打ちたてられる」。神経症者および原始人における意図と行為の同一性は、行為が意図に還元されることをいみするだけではなく、そのぎゃくをもいみしうる、ということだろうか(幼児は「反省」「自制力」を身につけるまでは欲望と行為が一致していると『フロイトの生涯』のジョーンズは暗示している)。