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「喪とメランコリー」

*「喪とメランコリー」(1917年)

 メランコリーは正常な喪のかわりにあらわれ、「自我感情の低下」をとくちょうとする。

 喪は、現実吟味によって愛する対象の喪失を理解したものの、別の対象にリビドーの備給をむけかえることができず(「よくあることだが、ひとはリビドーの向きを変えたがらない」)、現実に背を向けて「幻覚的欲望精神病」になった状態を、時間をかけて徐々に克服する「仕事」であるが、その間、失われた対象は「心のなかに存在しつづける」。

 メランコリーにおいては、「対象は現実に死んだのではなく、愛の対象としては消失してしまう」。あるいは、喪失を意識してはいても、何が失われたのかが意識できない。「患者はだれを失ったかは知っているが、その人についてなにを失ったかを知らない」。メランコリーはなんらかの意識されない対象の喪失に関係している点で喪と区別される。

 メランコリーは、喪にはみられない「自我の貧困」をともなう。「喪では外部世界が貧しくむなしくなるが、メランコリーには自我それじたいが貧しく、むなしくなる」

 こうした「道徳的な」卑小妄想は、生命を維持するための生物的な欲動をさえ凌駕し、不眠や拒食をもたらす。

 メランコリーにおいて問題なのは、喪におけるような対象の喪失以上に、自我にかかわる喪失である。 

 「メランコリー患者においては、自我の一部[=良心]がほかの部分と対立し、それを批判的に評価し、対象とみなしている」

 良心という審級は、意識の検閲と現実吟味とならんで広義の自我組織にくみいれられる。メランコリーは良心の病である。
 
 じっさいには「メランコリー患者の自己非難は、愛する対象にむけられた批判が方向を変えてじぶんじしんの自我に反転したものである」。「かれらの嘆き(Klagen)は告訴(Anklagen)なのだ」。ほんとうの自己非難もじゃっかんふくまれるが、それはこの反転のかくれみのであり、じっさいには他人への非難であればこそ、じぶんの卑小さをかくそうとはしないのだ。メランコリーの「後悔」は「反逆」に由来する。

 リビドーが備給された対象から侮辱されたり、失望された結果、対象備給は放棄されるが、自由になったリビドーは別の対象に遷移することなく、自我へと撤退する。そのリビドーは、棄てた対象と自我の同一化に費やされる。「対象の影が自我のうえに落ちて、自我はいまや、棄てられた対象として、良心による判定に委ねられる」。

 対象選択はもともと自己愛的な基盤のうえになされるので、対象備給が困難に出会うと、自己愛へ撤退する(ランク)。「対象との自己愛的な同一化が愛の備給の代用となり、愛の備給は愛する者との葛藤があっても放棄されない」

 「同一化は対象選択の準備段階」(「可愛くて食べてしまいたい」というアンビヴァレンツ。もしくは『トーテムとタブー』、「狼男」?)。そのかぎりでメランコリーは口唇期への退行(アブラハムの拒食症論)。

 同一化はヒステリーの機制でもあるが、ヒステリー的同一化においては、自己愛的同一化とはちがい、対象備給が維持されている。

 メランコリーは喪と自己愛的退行にともども負っている。
 
 「愛の対象を失うことは、愛情関係のアンビヴァレンツに効力を発揮させ、それを表面化させるきわだった誘因である」(「自我とエス」参照)。「アンビヴァレンツの葛藤は、……メランコリーの前提としてみのがせない」(喪とのちがい)。

 「対象への愛は棄てきれないで対象だけが棄てられるが(「愛は自我に逃避することにより消滅しないですむ」)、この対象への愛が自己愛的な同一化に逃避して対象が自我にとりいれられると、この代理の対象にたいしてあらわに憎しみがはたらき、……サディズム的な満足をおぼえる。メランコリー患者はうたがいなくじぶんの苦悩を享楽している」。そのかぎりでメランコリーは肛門期への退行ということになるのだろう。

 メランコリーにおいても強迫神経症においても、患者は「自己処罰という回り道をとおってもとの対象に復讐する。敵意をちょくせつしめすわけにはいかないので、みずから病気になって、その病気をとおして愛する者をくるしめる」。メランコリー患者の自殺傾向もここから説明できる。対象は棄てられるが、対象はなお自我よりも強力で、自我を圧倒している。自殺はその証拠である。
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「夢理論のメタ心理学的補遺」

*「夢理論のメタ心理学的補遺」(1917年)

 「自己愛は利己主義のリビドー的補完である」。夢もまた自己愛的である。夢は眠りを妨げるものにたいする防衛であり、「睡眠中の人を活動させようとする内的要求のかわりに、その要求を解決した外的体験があらわれる」といういみにおいて「投影」の一形態である。

 眠りを妨害する内的興奮もしくは外的刺激のうち、前者にふくまれるのが日中残滓。日中残滓には一定量のリビドーが備給されており、「睡眠の自己愛」(あらゆる対象からの備給の撤収)にさからう。日中残滓は潜在的夢思考であり、前意識にぞくする。日中残滓の備給は昼間よりも微量なので、夢の形成者となるためには、無意識的欲動の蠢きという源泉から強化をうけなければならない(睡眠中は前意識と無意識の境界はあいまいになる)。無意識の備給(抑圧)は自我の睡眠欲望に「抵抗」し、自我に睡眠欲望を放棄させる。夢を怖れるあまり睡眠を放棄する例さえある。「日中残滓という前意識の素材をもちいて無意識の蠢きにたいして表現をあたえる」「前意識的な夢欲望」が形成される。前意識にぞくする日中残滓は、「局所論的退行」(≠「時間的退行」)によって、視覚像に転換される(「形象性への配慮」)。事物表象の優位は、言語表象の優位をとくちょうとする精神分裂病とのちがい(「無意識」論文の末尾参照)。「夢は局所論的退行を識別するが、精神分裂病にはできない」。精神分裂病においては、言語表象と事物表象の交通が遮断される。

 夢における幻覚とアメンチアや精神分裂病における幻覚はいずれも退行によってうみだされるが(「幻覚性欲望精神病」)、退行とは「ほんらいの無意識的記憶像の退行的復活」に限定されない。幼児期における充足体験への幻覚的備給(「心理学草稿」における「仮説」[Fiktion])による失望は、現実吟味という「仕掛け」(Einrichtung)をうみだした。幻覚性精神病においては現実吟味がおこなわれない(「現実確信」)。その理由は、意識系の解明に俟つひつようがある。意識化は知覚系に還元されるとはかぎらない。

 「アメンチアとはある喪失体験にたいする反応であり、現実派その喪失を主張するが、自我はたえがたいものとしてその喪失を否定せざるをえない。その後、自我は現実との関係を断ち、知覚-意識系から備給を撤収する。……この現実からの回避によって現実吟味は除去される。……アメンチアは、たぶん自我にもっとも忠実に奉仕し、もっとも親しく結びついていた自我の一つの器官と自我との分離の興味深いドラマをみせてくれる」。この考察は後続する論文でメランコリーにそくして継承されるだろう。

 「アメンチアのばあいに『抑圧』がもたらすものを、夢のばあいには自発的な断念がつくりだす。睡眠状態は外界について何も知りたがらないし、現実にたいして興味をもとうとしない」。夢においては、睡眠中、意識系が備給されていないことで現実吟味ができなくなる。「夢では備給の撤収はすべての系においてなされる。転移神経症では前意識の備給が撤収し、精神分裂病では無意識の備給が、アメンチアでは意識の備給が撤収する」。

 本論文の意義はとりあえず、現実吟味(術語じたいの初出は1911年の「精神現象の二原則に関する定式」にさかのぼる)についての「体系的」(ラプランシュ=ポンタリス)な考察に見出せよう。

 後続する「喪とメランコリー」の冒頭では、「夢は自己愛的な精神障害の、正常者にみられる見本としてやくにたった」と本論文の内容が要約されている。

「無意識」

*「無意識」(1915年)


§1

 「意識されないものがすべて抑圧されたものであるとはかぎらない。……抑圧されたものは無意識の一部分にすぎない」


§2

 局所論の導入。[Vbw とUbwへの]二重の記載(記憶痕跡の不滅性)を想定する観点が「局所論」と定義される。


§3

 「感情」は「無意識的」でありうるか?

 「欲動は、表象によってあらわされるしかない」

 抑圧をこうむったあとの欲動の蠢きの量的因子の消長(消滅、別の情動、不安――「抑圧」論文に既出の分類)といういみで「無意識的感情」を想定することはすくなくともできる。


§4

 心理的過程を力動的、局所的、経済論的関係によって記述することがメタサイコロジーと定義される。

 逆備給という現象にそくして経済論的観点が導入される。

 「逆備給こそ原抑圧の唯一の機制である」。「本来の抑圧」は「前意識」備給の撤収を事とする。そして自由になったこの備給エネルギーが逆備給にふりむけられる。

 (1)不安ヒステリー(2)転換ヒステリー(3)強迫神経症における逆備給のあり方。

(1)前意識備給が撤収され、そのリビドーが不安に転化し、抑圧された表象に置き換えられた代理の表象にむけられる。さらに代理の表象がもたらす不安を軽減(拡散)すべく、その周囲の表象に備給がおこる。表象は抑圧されるが情動はそうではないので、「代理表象をかこむ防壁はつねにすこしずつ外側へ後退する」。「Bw[意識]系は、以前は、抑圧された欲動が侵入してくる戸口[Einbruchspforte]、すなわち代理表象にあたるところの、ほんの小さな部位を占めていたにすぎないが、最終的には恐怖症という前壁構築[Vorbau]の全体が、無意識の影響からの飛び地[Enklave]となる」。投影によって不安が欲動に由来するのではなく、外界の知覚に由来するかのようにみなし、「回避」が図られるが、その試みは無益におわる。

(2)症状は、逆備給のみならず、症状のうちに圧縮されたUbw[無意識]系からの欲動備給にも支えられている。

(3)逆備給は反動形成[良心の強化]として組織されて最初の抑圧を実現する。その後、「抑圧された表象の侵入」[「社会的不安、良心の不安」などのかたちをとった「抑圧されたものの回帰」]がおこるが、これも逆備給による。


§5

 無意識の特徴が記述される。

 「無意識の核は、その備給を放散させようとする欲動の代表、つまり欲動の蠢きからなりたっている。これらの欲動の蠢きは、たがいに並列し……」

 無意識には否定(「より高次の水準での抑圧の代理」)、疑惑、確実性もなく、無時間的である。

 「無意識の過程は、それじたいでは認識されえず」、夢と神経症をつうじてのみ知ることができる。


§6

 Ubw, Vbw, Bw 各系の相互交通について考察される。

 「無意識の派生物[空想など]は、質的にはVbwに属しているが、事実的にはUbwに属している」

 「意識的になるということはたんなる知覚行為ではなく、過剰備給であり……」

 「ひとりの人間の無意識が他の人間の無意識に反応することができること……」

 「無意識の内容は、心的な意味での原住民[psychischen Urvölkerung]になぞらえることができる。人間においても、遺伝される心的形成物、動物の本能に似たものがあるとすれば、これが無意識の核をなすであろう。のちになるとここに、幼年期の発達のあいだに不要になったとして片付けられたものたちがつけ加わって行くことになる。これは、その性質からして、遺伝されたものと区別するひつようがない」


§7

 無意識については、自己愛神経症の知見によってさらに知ることができるであろう。

 「精神分裂病では、転移神経症においては精神分析によってはじめて無意識のなかに認められるようになることがらの多くが、意識的なものとして表出されている」

 精神分裂病における「言語の変容」においては、「身体諸器官や身体の神経支配にたいする関係が前景にあらわれている」。「Augenverdreher」(目がねじれている=偽善者)という表現においては、「器官(目)への関係が内容ぜんたいを代表している」(心気症的な「器官言語」)。ヒステリー者であれば、意識することなく、痙攣的に目をねじるところだ。精神分裂病にあっては、言語は一次過程に委ねられる。「言葉たちは圧縮され、置き換えによってじぶんたちの備給を不断に移し合う。……ただひとつの語が、幾重にも積み重ねられた関係によって、思考の網の目ぜんたいの代表を引き受けることができる」。

 転移神経症におけるのとはことなり、精神分裂病における代理形成は、事物の関係よりも語の関係のほうが優位に立つ。視覚的な類似ではなく、言語的な類似によって表象が置き換えられる。事物と語が合致していない。精神分裂病においては、対象備給そのものが放棄されているわけではなく、対象の語表象の備給は保持されている。意識される表象は事物表象(「さいしょでほんらいの対象備給」)と語表象からなりたつが、無意識的表象は事物表象のみからなる。語表象への備給は、抑圧ではなく、精神分裂病における「復旧の試み、治癒の試み」をあらわす。

「抑圧」

*「抑圧」(1915年)

 外的な刺激とはちがい、欲動の蠢き[Triebregung]からは「逃避」できないので「抑圧」という抵抗がおこる(のちには「判断棄却」という手だてが見出される)。
  
 抑圧はなぜおこるのか。欲動の蠢きの充足はつねに快をもたらすが、これを不快に変えてしまうようななんらかの要求を想定しうる。(力動的観点→「防衛」)
 
 「抑圧の本質は意識からの退け(Abweisung)と遠ざけ(Fernhaltung)においてのみ成り立つ」。「無意識」論文の冒頭で確信されているごとく、欲動の代表を廃棄したり(aufheben)、根絶したりする(vernichten)のではないということがキモである(そうではなく、意識になることを妨げる[sie vom Bewußtwerden abalten]ことである)。意識と無意識の分離以前においては、「対立物への逆転」、「自己自身への向け変え」という機制が欲動の蠢きへの「防衛」手段としてえらばれる。

 抑圧は、原抑圧、本来の抑圧、抑圧されたものの回帰(症状形成etc.)の三段階からなる。

 原抑圧においては、「欲動の」[岩波版では脱落している]「心的な(表象の)代表」[der psychischen (Vorstellungs-) Repräsentanz des Triebs]が意識への受け入れ[Übernahme]を拒まれる[versagt wird:岩波版では「不首尾に終わる」]。この段階では欲動と代表(表象)はむすびついている(「固着」)。

 抑圧された表象は、意識からしめだされると、(意識されているときいじょうに)自由に育まれ、「極端な表現形式」をとって、主体にとって「異物」[よそよそしい fremd]とかんじられたりする。

 神経症の症状は、「抑圧されたものの派生物[蘖 Abkömmlung]である。

 抑圧はすぐれて「個別的」[individuel]にはたらく。抑圧されたもののひとつひとつの派生物が特殊な運命をもつ。また、抑圧は「流動的」[mobil]である。抑圧は持続的な現象なので力を消費し、それゆえその解消は節約をいみする(経済論的観点)。そのために「無意識の[抑圧されていない]派生物」が形成される。症状はそのひとつのあり方である。

 欲動の代表が抑圧される一方、欲動そのもの(「情動量」Affektbetrag)は抑圧と無関係でありえ、「無意識の派生物」をとおして迂回的に抑圧を回避しようとする。

 情動量の三とおりの運命:(1)完全に抑え込まれる(2)なんらかの情動としてあらわれる(3)不安に転化

 抑圧の動機が不快をさけることであるいじょう、「欲動の情動量の運命は、欲動の代表(表象)の運命よりずっと重要である」。表象の抑圧が成立していても、不快の軽減がともなわなければそれは「失敗した抑圧」である。

 「抑圧のメカニズムは抑圧の結果[代理形成、症状形成]から逆に推論してのみわかる」

 とはいえ、症状は抑圧そのものではなく、「まったく別の過程から発生する」抑圧されたものの回帰の徴候である。

 ラプランシュ=ポンタリスによれば、「グラディーヴァ」論の時期までは、抑圧と抑圧されたものの回帰が同一視されていた(十字架像=裸女)。1910年12月6日付のフェレンツィ宛書簡においてはすでに両者は区別されている。

 さいごに三しゅるいの神経症にそくして抑圧のあり方が考察される。

(1)不安ヒステリー:抑圧は失敗している。父へのリビドー的態度が抑圧され、「置き換え」によって動物(狼)への不安に転化するが、表象の置き換えが不快の軽減をともなっていない。

(2)転換ヒステリー:情動量の消滅という点では抑圧は成功している。

(3)強迫神経症:初期段階では抑圧が成功するが、その後、失敗する。退行によって愛する人にサディズム的力が向けられるが、それが抑圧されて「代理形成」(「反動形成」)によって良心(≠症状形成)が強化される(表象は駆逐され、情動は消滅するので抑圧は成功している)。消滅した情動が「社会的不安、良心の不安、容赦ない非難」となって回帰し(「抑圧されたものの回帰」)、一方、駆逐されていた表象は、どうでもいいものへの置き換えによる代理(遷移代替物)によって代理される。こうして抑圧の仕事は終わりのないループをむなしく描く。

「欲動とその運命」

*「欲動とその運命」(1915年)

 欲動は精神分析という科学の「基本概念」の一つである(ラカンは精神分析の「基本概念」として他に無意識、転移、反復を挙げている)。科学が基づくべき「基本概念」は、観察によって導かれたもの以外の要素も含む抽象的理念であり、「仮説的」な身分しかもたないが、経験的事実とのあいだに「推測的な」関係をむすんでいる。この関係は、事後的に検証されなければならない。それゆえ「基本概念」とはつねにその定義を変遷させる(「基本概念」についてのこの考え方は、「ナルシシズムの導入に向けて」でも表明されているとスタンダード・エディションの注にはある)。「基本概念」であるかぎりで、欲動には「さまざまな面から内容を盛り込む」というかたちでしかアプローチできない。
 
(1)生理学的アプローチ

 欲動は心理的なもの(das Psychische)にとっての「刺激」の一つである。それは有機体内部からの「刺激」であるかぎりで、心的なもの(das Seelische)におよぼされる他の刺激とは区別される。

 さらに欲動という「刺激」は「恒常的な力」であり、逃避行動のような一回的な反応によって除去されることがない。欲動という刺激は「満足」すべき「欲求」である。

 ところで「われわれはあるしゅの仮説を基礎概念として経験素材におしあてるだけでなく、心理学的な現象の世界をとりあつかううえでの手引きとすべくいくつもの複雑な前提(Voraussetzung)をも用いる」。快原則という「生物学的」な「傾向性(もしくは合目的性)」はそのひとつである。それによれば、「快不快の感覚が刺激克服の行われ方をあらわしている」(不快は刺激の増大と関係し、快はその減少と関係する)。

 「外的刺激ではなく欲動こそ、無限の能力をそなえた神経系をこんにちの発展段階まで高めた進歩の根源的要因である」。そして欲動そのものが、系統発生の途上における外的刺激作用の「沈殿物」である。
 
(2)生物学的アプローチ

 欲動は身体的なものと精神的なものの「境界概念」であり、「刺激の心的代表」である。

 欲動の「衝迫」「目標」「対象」「源泉」という側面から定義される。

 衝迫——すべての欲動は能動的であり、受動的な欲動とは、受動的な「目標」をもった欲動の謂いである。

 目標——欲動の最終的な「目標」は一つでも、そこにいたる過程はさまざまでありえ、多様な中間的な「目標」が生じうる。さらにそれらが互いに連結されたり交換されたりすることがありうる。

 対象——「対象」はもともと欲動に結びついているわけではなく、「目標」を達する手段として用いられ、可変的である。外的なもの以外に、じぶんじしんの身体の一部でもありうる。

 源泉——欲動はすべて質的には同一であり(「原欲動」)、量においてのみ区別される(量は「源泉」次第)。

 「破壊欲動」「遊戯欲動」……など個々の欲動は「原欲動」に還元しうる。「原欲動」は「自我(自己保存)欲動」と「性欲動」に分かれる。この分類は転移神経症の観察によって導き出された「補助的な足場」Hilfskonstruktion)にすぎず、自己愛神経症の観察をとおして訂正される余地がある。欲動の分類に際しては、心理学的素材の観察にちょくせつ汲むのではなく、他の分野から借りてきた仮説を素材にあてはめるのがベターだ。性が個体を超えることを教える生物学によって、性欲動は裏付けられる。自我欲動については、転移神経症以外の神経疾患の知見による解明を俟つべし。

 欲動の運命:(1)対立物への逆転(2)自己自身への向け換え(3)抑圧(4)昇華

 これらはいずれも欲動にたいする「防衛」のあり方。

(1)対立物への逆転
(i)能動から受動への向き直り:サディズム←→マゾヒズム、窃視←→露出。「目標」の逆転。
(ii)内容の反転:愛→憎

(2)自己自身への向け換え:「目標」ではなく「対象」の変更。

 なお、(1)と(2)が同時に起こりうることは、サディズム/マゾヒズム、窃視/露出において確認できる。

 サディズム/マゾヒズムのメカニズム:(a)他者を「対象」とするサディズム→(b)「対象」がじぶんじしんに置き換えられる→(c)サディズムの「主体」としての他者の召喚(=マゾヒズム)。

 マゾヒズムはサディズムに由来し、本来的マゾヒズムは存在しない(1924年の脚注において、「マゾヒズムの経済的問題」において逆の見解を提示されたことが付言される)。

 サディズムは制圧という本来の「目標」のほかに、苛虐という目標をともなう(子供のサディズムには後者は認められない)。サディズムのマゾヒズムへの転換によって、苦痛がマゾヒズム的な「目標」となることで、翻ってサディズムの目標ともなる。サディストは苦しむ「対象」に同一化することでマゾヒズム的に苦痛(正確には苦痛にともなう性的興奮)を享受する。

 窃視/露出のメカニズム:サディズム/マゾヒズムと並行的な(a)〜(c)にさきだち、自体愛的にじぶんじしんを対象とする窃視の段階がある(「マゾヒズムの経済的問題」においてサディズム/マゾヒズムにおいても想定される)。

 以上、(1)(2)の過程は、欲動の総量についておこなわれるものではなく、対立的な方向性が並存する(「太古の遺産」としてのアンビヴァレンツ)。(1)、(2)のメカニズムの由来は自己愛にある。つまり、「対象」が「源泉」(自分自身の身体)に吸収される。

 ここで話題は(ii)の愛憎に移行する。

(A)愛をめぐる対立関係:(α)「愛←→憎」(β)「愛する←→愛される」(能動←→受動)(γ)「愛憎←→無関心」

 つづいて(A)にほぼ重なる対立図式が提示される。

(B)心的生の対極性:(1)「主体←→対象」(自我←→外界)(2)「快←→不快」(3)「能動←→受動」(男性的←→女性的)。

 これら三つは統合されることがある。自体愛的な「原初的な現実自我」は、自己保存欲動にしたがって内部と外部を客観的に区別しているが、不快をもたらすものの投射と、快をもたらすものを取り入れ(フェレンツィ)をつうじて、快原則にもとづく「純粋な快自我」(「拡大さrた自我」)へと組み換えられ、(1)と(2)が結びつく。

 (A)[愛]と(B)[性]の対応関係はつぎのようである。(α)=(2)、(β)=(3)、(γ)=(1)

 愛憎は、一つの根源的なものから分裂して生じたのではなく、別々の起源をもち、独自の発展をたどって、「快←→不快」関係の影響下に対立物として形成された。

 愛:(1)根源的には自己愛的だが、(2)「快自我」に吸収された対象へと移行し、(3)さらに快をもたらす対象をもとめる自我の努力が生まれる。

 性:(1)アンビヴァレンツ、合体(「可愛くて食べてしまいたい」)→(2)苛虐、占有衝迫(肛門サディズム期)→(3)愛憎の対立(性器的体制)。
 対象にたいする憎悪は愛よりも古い。

 総じて、欲動の運命は(B)の三つの対極性にしたがう。このうち、「能動←→受動」は生物学的、「自我←→外界」は現実的、「快←→不快」は経済論的である。

「戦争と死についての時評」

*「戦争と死についての時評」(1915年)

 前半のパートは 「戦争がもたらした幻滅」と題されている。

 「こんな戦争があろうとは信じられないような戦争がいまや勃発し、そして——幻滅をもたらした」。第一次大戦はそれまでのあらゆる戦争の「残酷で、激烈で、情け容赦のない」性質を極限化した。同時に「この戦争はまた、ほとんど理解できないような現象を出現させた。文明化された諸民族が、互いに知り合い、理解し合うことがあまりにもすくないために、互いに憎しみと嫌悪をいだいて対抗しさえするようになるという現象である」。とくていの偉大な一文明国にこの情動が向けられ、「野蛮」とみなされている。第一次大戦は、文明と野蛮の対立ではなく、文明国どうしの対立を人類に歴史にもたらした。

 ところで、「人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動の蠢き[Triebregungen]にあり、この欲動の蠢きは基本的本性[die elementarer Nature]に属するものであり、すべての人間において同じであり、あるしゅの根源的欲求[ursprünglicher Bedürfnisse]の充足を目指している」。欲動はアンビヴァレンツを特徴とし、それじたいでは善でも悪でもない。利己的な欲動は、性愛とむすびつくことで愛他的で社会的なものになる(内的強制)と同時に、教育による強制(外的強制)によって善い欲動へと転換させられる。このうち、内的強制は、人類史の過程でもともと外的強制であったものが内面化したものである(系統発生論的ヴィジョン)。かくして文明社会において、欲動は悪とされ、その実現が不可能になった。「文明社会は、多くのひとびとを文明に服従させはしたが、といってかれらが本心から服従したわけではなかった、このような成果に気をよくして、利益社会は不用意にも道徳的要求を可能なかぎり高くかかげてしまい、そのためその成員を欲動的素質からいやがうえにも遠ざかるように強いてしまった」。というわけで、文明人は心理学的に「分不相応な生き方」を強いられたいうなれば「偽善者」である。「現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実を範として生きようと企てようものなら、その文明は根本的な変革をこうむらねばならないのである」。第一次大戦が明るみに出したのは、この事実だ。戦争の残虐は、ほんらい「幻滅」の対象でもなんでもない。

 「民族や国家といった大きな人間集団がたがいにたいする道徳的制限をなくしたことは、文明の持続的圧力をしばし逃れることや、差し止められていた欲動につかのまの充足を認めることを促進した。その際、かれら[「世界市民」=文明国]の民族性の内部にある相対的道徳性には、おそらくいささかの破綻をも生じなかった」。戦争は欲動の蠢きを全面的に解放するのではなく、国家の暴力装置(ちなみにウェーバー『職業としての政治』の刊行は本論文の5年後である)への従属と引き換えに部分的になしとげるといういみであろう。

 「原始的心性はあらゆるいみにおいて不滅である」。夢において「入眠と同時にわれわれすべては苦労してえられた道徳性をあたかも衣服のようにぬぎすて――、翌朝、ふたたびそれを身につける」。戦争もまた、原始的な心性への「つかの間の」「退行」である。「戦争はわれわれから、よりあとから形成された文化的な層をはぎとり、われわれのなかにいる原始人をふたたび出現させる」。
 この戦争において「もっとも優秀な頭脳さえ洞察の欠如、頑迷さ、徹底的な議論の忌避、容易に反駁されうる主張にたいする無批判な追随[「論理的盲目」]をしめした」ことは、集団心理への洞察へとフロイトを導いた。「多数の人間、何百万という人間があつまると、あたかも個人の道徳的獲得物のすべてが抹殺され、もっとも原始的で古く、そしてまた粗野な心的態度のみが残ったかのようである」。
 「なぜ個々の民族が互いに軽蔑しあい、憎しみ、嫌悪しあうのか。しかも平時においてすらそうであり、さらにすべての国民が例外なくそうであるのはなぜなのか。――実のところこれらは不可解である。わたしはその点について答えることができない」。けだし民族の形成そのものが、情動の充足を「合理化」するための「利害共同体」なのである。
 
 「死にたいするわれわれの態度」と題された後半のパートにおいては、戦争が万人の抱く不死への無意識的確信を揺るがせるとされている。文学や芸術(「英雄精神」)はみずからの「生の損傷にたいする代償」であり、未開人は亡霊の観念によって、宗教は来世の観念によって死を否認する。「殺すべからず」という戒めは、原始人類による殺戮の表現であり、情動の充足にたいする反動形成であったものが、愛してもいない未知の人にもおよぼされるようになったものだ。「われわれの無意識的欲望の蠢きから判断すれば、われわれじしんもまた原始人と同じく殺人者たちの一味である」。戦争はこの事実をあかるみにだす。

 「われわれは膝を屈して戦争に順応する存在であってはいけないのか。われわれは死にたいする文明的な考えによって、心理学的には分不相応に生きてきたことを認め、改心して、真実を告白すべきではないのか。現実においても、われわれの思考においても、死にたいしてふさわしい席をあけてやり、これまできわめて入念に抑え込んできた死にたいする無意識の考え方を、もうすこしあらわにするほうがよいのではなかろうか」。こうした選択肢には留保を置かざるをえないとしても、すくなくとも、生をふたたび耐えうるものにするというメリットをもつ。「生に耐えうることは、生きとし生けるものの第一の義務でありつづけている。幻影は、これを妨げるかぎりで無価値である」。「平和を維持しようとそ欲するなら、戦いの準備をととのえよ」という格言は、「生に耐えようと欲するなら、死の準備をせよ」と言い換えるのがふさわしい。

「想起、反復、徹底操作」「転移性恋愛について」ほか

*「想起、反復、徹底操作」(1914年)

 抵抗は想起を困難にし、行為(反復)を促す(本論文は「反復強迫」という術語の初出)。行為は「過去という兵器庫からもちだされた武器」であり、転移の操作をとおして行為のかわりに想起を導かなければならない。「転移はそれじたい反復の一部にすぎず、反復は忘れられていた過去を、たんに分析医にたいしてだけにとどまらず、現在の状況における他のすべての領域にたいしても転移する」。解釈の投与は分析の出発点にすぎない。徹底操作は患者に「時をあたえる」ことである。「通常の神経症を転移神経症に置き換える操作」。これまで「転移神経症」という術語は[転移が不可能な]自己愛神経症との区別において使われてきたが、ここでは分析においてうみだされる人工的な神経症というあらたな意味あいで使われている。


*「ギムナジウム生徒の心理学のために」(1914年)

 母校の創立記念文集への寄稿。子供が外の世界を知るようになると、父親を客観視するようになり、それまでの父親の権威は失墜する。教師はその年頃の子供にとって「父親の代替」となり、父親のアンビヴァレンツが投影される。若い教師からでも近寄りがたい成熟した大人の印象を受けるのはそのためだ。フロイトは五十近くなるまで、街で立派な身なりの紳士を見かけると、じぶんとさして年が離れていないようにみえても、ギムナジウム時代の恩師と思いこんで挨拶してしまう癖があったという。


*「転移性恋愛について」(1915年)

 分析において、「抵抗は恋愛をみつけてそれを利用し、その表現を誇張する」。転移性恋愛は幼児期の反復であるが、これは恋愛一般の本質である。転移性恋愛は、「正常な恋愛」よりも現実への配慮を欠き、無思慮、無分別であるが、正常から逸脱しているという特徴こそが恋着一般を定義するというパラドクス。分析家の三重の戦い(自分自身、分析治療への反対者、患者にたいするそれ)。転移性恋愛における情熱の扱いには高度の危険がともなう。しかし、「医療行為においては、薬とならんでいつだって鉄と火を受け入れる余地が残されている」。

「精神分析運動の歴史のために」

*「精神分析運動の歴史のために」(1914年)

 同時期の「ナルシシズムの導入にむけて」における内容をフロイト自身が身をもって例証しているような(行為遂行的な?)テクスト。

 フロイトは抑圧概念がショーペンハウアーによって先取りされていることをみとめつつ、それをじぶんの「発見」と宣言し、それを「精神分析という構築物を支える屋台骨」「精神分析の本質」と位置づけている。

 「抑圧の理論については、わたしはまちがいなく自立していた(selbständig)。なにかの影響を受けて、その結果この理論に近づいたというわけではけっしてない。O・ランクがショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の一節をわれわれにしめすまでは、長いあいだ、こうした考えは独創的な考えであるとおもっていた。……現実の不快な部分を受け入れることへの抵抗についてそこで言われていることが、わたしの抑圧理論の内容と完全に一致しているので、わたしはいま一度、その書を読んでいなかったおかげで発見が可能になったことに感謝すべきだった。しかし、他の人たちはこの箇所を読み、こうした発見をすることなく読み飛ばしたのだった」! 「ニーチェの著作を大いにたのしむことも、その後の時期に、意図的な理由で断念した。精神分析で得た印象を処理するのに、どんな予測的観念にもじゃまされたくないとおもったのである」

 アドラー理論の核心をなす「男性的抗議」とは、「抑圧」(および夢における「願望充足」)概念の横領にほかならない。フロイトはアドラー理論を夢における「二次加工」になぞらえる。精神分析的概念という「素材」が自我という観点のもとにまとめなおされる(「自我に近しいカテゴリーの下に置かれ、翻訳され、転換され、そしてまさに夢の形成においてよく起こるように、誤解される」)。「アドラー理論のアドラー理論らしい点は、その主張するところにはなく、むしろその否定するところにある」。「アドラーは十年におよぶ共同研究のあいだに、だれもが近づくことのできる源泉から精神分析的認識をくみとり、その術語を変更することによってじぶんの手になるものだということにしてしまった」。

 「男性的抗議」の観念は、原光景における男児の女性への同一化や、神経症の女性の男性への同一化という神経症のキモともいうべき契機を無視している。

 とはいえ、「好感を得ようというもくろみのうえにたつ(ad captandam benevolentiam)」ユングの理論にくらべれば、「完全にまちがっている」とはいうものの、アドラーのほうが「うたがいもなく」重要である。「一貫性とまとまり」において。そして欲動理論にいぜんとして基づいていることにおいて。

 ユング一派は「じぶんたちがその代表者として世間に名を知られるようになった精神分析とのつながりを捨ててしまおうとはしないで、精神分析のほうが変わったのだと言いふらすことを選んでいる」。

 アドラーが自我心理学というかたちでの精神分析への貢献の見返りとして「いっさいの基礎的な分析理論を排斥」した一方、ユングとその一派はエディプス・コンプレックスを倫理的・宗教的次元に還元(昇華)することで性的な次元を否定した。ユングによれば、エディプス・コンプレックスはたんに「象徴的」ないみしかもたず、殺意のむけられる父親は「内なる」父親にほかならない。ユングは「世界の出来事という交響曲からいくつかの文化的な最高音部だけをより分けて聴き、根源的な欲動の旋律を聴き逃がした」。アドラー同様、ユングは抑圧および無意識を無視し、夢と夢の潜在的な夢思考とを混同している。

 ユングも「リヒテンベルクのナイフ」よろしく、精神分析のラベルだけを残し、その内容を「変更」した。落ちぶれた名門出身の両親の「血統証明書」を作成するごとくに、アドラーは社会学、ユングは宗教・倫理学という各々の出自に精神分析理論を奉仕させようとした。

「ナルシシズムの導入にむけて」

*「ナルシシズムの導入にむけて」(「ナルシシズム入門」、1914年)

 フロイトはナルシシズムの観念を自己愛神経症(パラフレニー、心気症)から一般化し、すべての主体に普遍的にみられるプロセスであるとする。さらに、一次的ナルシシズムを脱してからも、ナルシシズム的な備給は消滅することがない。原生動物の「偽足」のように、一時的に形成されるものでありながら、不滅である(この比喩の理解が正しければ)。

 自我リビドーと対象リビドーとの明確な区別は本論文において導入された(ストレイチー)。自我リビドーと対象リビドーがゼロサム的な関係にあるという考えも本論文ではじめて述べられている。
  
 ナルシシズムの解明には、パラフレニーが手がかりになるが、そのほか、1)器質的疾患、2)心気症、3)愛情生活という面からのアプローチも可能である(第2節)。

 1)器質的疾患においては、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかにこころが逗留している」(W・ブッシュ)。 

 2)転移神経症(ヒステリー、強迫神経症)においては対象リビドーの堰き止め(鬱積 Stauung)が、心気症・パラフレニーにおいては自我リビドーの堰き止めがおこる。

 心気症における器官妄想、パラフレニーにおける誇大妄想、転移神経症における不安はリビドーの自我への回帰。

 3)「人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている」。前者がナルシシズム的な対象選択であり、後者が委託型のそれである。あるしゅのひとにおいては、前者が優勢となって、同性愛的な対象選択へと導く。

 完全な対象愛は男性的であり、幼児の根源的ナルシシズムに由来する性的過大評価をともなう。性的過大評価は、それが対象にふりむけられるばあいであっても、本質的にナルシシズムの特徴である(「恋着とは自我リビドーが対象へと溢れでていくことである」)。

 女性のばあい、女性器の発達とともに根源的ナルシシズムが優位にたち、「男性がかのじょを愛するのと同じつよさでかのじょじしんを愛する」。女性は愛することではなく、愛されることをもとめる。

 このようなナルシシズムへの耽溺は、ナルシシズムを克服し、リビドーを対象にふりむけようしている人を嫉妬させ、そのような人にとって魅力となる(「女性の本質に潜む謎」)。子供、動物、極悪人の「ナルシシズム的な首尾一貫性」も然り。

 女性はナルシシズム的リビドーを子供という対象にふりむける。ただし、男性的な女性は、子供という対象をひつようとせず、理想的な男性を対象にえらぶ。この男性のうちに、かつてのじぶんの姿をさがすのだ。

 親バカは親が放棄したナルシシズムの復活にして再生である。親は子供に「逃避」することで「自我[リビドー]の不滅性」の安全を確保する。

 自我理想の概念の導入も、本論文の意義のひとつだ。自我理想とは、幼児期のナルシシズム的な完全性の復活である。「かれが自己の理想として眼前に投影するものは、かれじしんが自己の理想であった幼児の、失われたナルシシズムの代理物」。

 「幸福」とは自我理想をとおしてのナルシシズムへの回帰と定義される。「幼年期においてと同じく、性的追求にかんしてもまた、ふたたびじぶんじしんの理想となること、それを人間はみずからの幸福として手に入れようとする」。

 自我理想の立場からナルシシズム的な満足を監視し、検閲する心的審級が「良心」である。パラノイアの観察妄想はその「退行的」な表現であり、幻聴とは両親の罰する「声」に由来する。
 
 「良心という掟はまずもって両親の批判の、ついで社会の批判をわが身に浸透させることであり、この過程はもともと外部からの禁止または障害から抑圧傾向が生じてくるさいに反復される。ところが病気になると、例の声や漠然と不特定のままになっていた多数の人々が姿を表し、こうして良心の発達史を退行的に再現することになる」。

 自我理想は自我の抑圧に由来するかぎりで「昇華」とは別物である。

 「自我の発達とは一次的ナルシシズムから隔たっていくことであり、それはこのナルシシズムを取り戻したいというはげしい希求を生じさせる。この隔たりは、外部からおしつけられた自我理想へのリビドー遷移をもちいて、つまりこの理想の成就がもたらす満足へのリビドー遷移をもちいて生じてくる。……自我感情の一部は一次的なもの、つまり子供のナルシシズムの名残であるが、他の一部は経験をつうじてたしかなものとなる万能(自我理想の成就)に由来し、第三の部分は対象リビドーの満足に由来する」
 
 「性的理想は自我理想をきょうみふかいやりかたで補助することがある。ナルシシズム的満足が現実の障害につきあたると、性的理想は代償的満足としてやくだてられうるのである。その場合、ナルシシズム的な対象選択にしたがって、じぶんがかつてそうであったがいまは喪失してしまったものや、およそじぶんとは縁のない長所をそなえているものを愛する」。すなわち、「理想をめざすうえで自我に欠けている長所をそなえているものが愛される」。

 これが「愛による治癒」と呼ばれる。精神分析において患者は分析家にそのようなやくわりを期待する。それゆえ、対象リビドーを撤収させた患者をうまく転移に導くことが分析の鍵となる。

 自我理想は社会的なものでもあって、集団心理の理解のたすけともなる。自我理想は一家族、一階級、一国家に共通の理想でもある。自我理想は共同体の形成における同性愛的契機(『トーテムとタブー』)をとおしてナルシシズムを継承している。

 自我理想の形成によって同性愛的なリビドーが拘束されないと、それは「罪の意識(社会的不安)」に転化する。もともと両親の罰への不安であった罪の意識が、同胞という不特定多数の人にたいするそれになる。

 本論文はアドラーの「男性的抗議」およびユングの脱性愛化されたリビドー理解を標的にしている。

「ミケランジェロのモーセ像」


*『ミケランジェロのモーセ像』(1914年)

 「もっとも偉大な、もっとも圧倒的な芸術作品ほどかえっていつまでもわれわれの理解力に解明されないままにとどまる」という「一見しての逆説」。 

 神は細部に宿るという精神分析の教訓を例証すべく実践される右手と石版の位置をめぐる詳細な解釈のうち、前者はフロイト以前に別の論者が提示していたことが最後のパートで明かされる(フロイトは事後的にその文献を知った)。ただし石版の不自然な位置についてはじぶんがはじめて指摘したと負け惜しみを述べている。

 「われわれがこの像にみてとるのは、乱暴な行為への序曲ではなく、過ぎ去ったある動きの名残である」。「モーセ像の現在の姿勢は、それより以前のここには表されていない一瞬へ戻してみることによってのみ正しく説明されうる」。神経症が幼児期によって説明しうるように、というわけであろうか。

 像によみとられる「垂直方向に表現された三層」(「像ぜんたいの支配的感情である諸感情」をあらわす顔、「抑制された動きの痕跡」がみてとれる中間部、「抑制が上から下へと順に進みさがってきたかのようにもともと意図された行為の姿勢」をとる足)とは、心的局所論を予言しているかのようだ。こうした異質な要素のモンタージュは、旧約の原文がもともと複数の異本のつぎはぎである事実(ルネサンス期にはまだ知られてしなかった)に由来すると考えられる。ミケランジェロは「内的な動機」を優先して原文を無視する心理学主義をとっていないが、そのかわり、モーセの[直情型]性格から「離脱」するという、より過激な変更をほどこしている。彫刻家の鑿の下からたちあらわれるのは「歴史的あるいは伝説的なモーセより一段とたちまさった(überlegen)もうひとりのモーセ」である。ミケランジェロはモーセのイメージに「なにか新しいもの、超人的なもの」をあたえ、その「暴力的とすらいいうる肉体の充実と力みなぎる筋力」をもって「人間においてあらわれうるもっとも高貴なる心的営為[die höchste psychische Leistung]をあらわす絶好の身体的表現手段」となっている。

 法王の下に全イタリアを結集させんとするモーセ的野心に燃えるユリウス2世と「大きなもの(Großes)、強力なもの(Gewaltiges)、なかんずく広大な世界(das Große der Dimension)」への志向を共有しつつ、ミケランジェロは法王の企ての失敗を見抜いていた。そしてそれが彫刻家じしんの「宿命」であることをも見抜いていた。ミケランジェロがこのようなモーセ像を法王の霊廟に捧げたのは、故人への非難であると同時に「じぶんじしんへの警告のためであり、この[自己]批判によっておのれの本性を超越する(über die eigene Natur erheben)ためであった」。

「分析治療の開始について」「精神分析治療中における誤った再認識(「すでに話した」)について」ほか

*「分析治療の開始について」(1913年)

 神経症は「異国の娘」(シラー)。

 金銭の汚物視(「金銭の評価には根づよい性的要因が関与している」)。それゆえ分析の費用については、患者を「性生活の問題で啓蒙しようとしているばあいと同じように」率直に話題にするのがよい。分析家は「患者にじぶんが時間をいかに大切にしているかをということをじぶんからすすんで話して聞かせることによって、じぶんが[金銭にたいする]誤った羞恥心を捨ててしまっていることを証明する」べきだ。

 貧困者は生活苦のために働き詰めなので神経症にはかかりにくいが、いったんかかってしまうと治癒しにくい。「ひとびとが物質的貧困にたいして拒んだ憐れみをいまや神経症の名のもとに要求し、貧困を労働によって克服せよという要求から逃避する」からだ(疾病利得)。こういう患者は、分析ではなく、ヨーゼフ2世式の[慈善による]治療がひつようだ。
 
 転移の必要性(「分析操作の第一の目的は、患者を治療に、そして分析家の人格に執着させること)と転移を俟っての解釈の投与(知識は無意識と両立するので、解釈は知識として機能しない)。

 分析の使命は、「治癒への欲望」という患者じしんの「本能的な力」をふくらませ、適切に導くこと。「分析操作は、転移というかたちで準備されたエネルギーを動員することによって、抵抗の克服にひつようとされるだけの情動量をつくりだす。そして適切な時期にあたえられる解釈によって、このエネルギーを合目的的に導いて行く道を患者に示す」。分析の進行につれてうまれる患者の側の「知的関心と理解」もそのたすけになる。


*「オスカー・プフィスター著『精神分析の方法』への序文」(1913年)

 教育と精神分析は相補的である。「教育は、こどものある素質なり体質的傾向なりが個人ならびに社会にとって有害なものとなることのないように配慮する。治療法[精神分析]は、その素質がすでに病的な症状というのぞましくない結果をうみだしてしまった段階で活用される」。教育は「予防法」であり、精神分析は「事後教育」である。ただし、教育者が扱うのはどんな印象をも受けとめる「可塑性な素材」であり、それをみずからのいだく理想によってではなく、「対象に固着している素質と可能性」によってねりあげるひつようがあるぶん、分析よりも責任が重い。

 精神分析をおこなうためには医師であるひつようはない。

 精神分析と教育については『精神分析への関心』の末尾でも考察されている。「われわれの最善の美徳は、反動形成や昇華として、最悪の素質の土壌のうえに成長した。教育はこの貴重な力の源泉を埋もれさせてしまわないようにまえもって用心し、このようなエネルギーがよい道へ導かれる過程を促進することだけにとどめるべきだろう」とあり、プフィスターの名前が挙げられている。


*「ジョン・グレゴリー・バーク著『諸民族の風俗・習慣・信仰・習慣法における汚物』への緒言」(1913年)

 民俗誌学的知見は、「幼児はそのさいしょの発達段階のあいだに、排泄物と人間との関係において、おそらくはホモ・サピエンスが母なる大地から独立するとともにはじめられたとおもわれるあの変化[嗅覚がよわまり、性的器官ではなくなる]をくりかえすよう強いられている」という系統発生的な結論を導く。

 「排泄物は、じぶんの身体の一部であり、自身の有機的組織がかちとった成果[Leistungen]であって、そうしたものとして、こどもがじぶんじしんに属しているすべてのものに向けるあの尊崇の念[Hochscätzung]——われわれがナルシス的と呼んでいるそれ——をなお受け取っている」


*「精神分析治療中における誤った再認識(「すでに話した」)について」(1914年)

 分析中、「すでに話したことですが」という前置きではじめられる話題は分析の鍵になる。この感覚は既視感に似ている。既視感の説明としては、前世の記憶(ピタゴラス)、左右の脳の一時的機能分離(ヴィガン、1860年)、疲労などによるたんなる錯覚というものにくわえて、無意識的な知覚が類似した印象をきっかけに事後的に意識化されるというグラッセの仮説(1904年)があり、フロイトはグラッセの説を是認している(『夢解釈』では既視感が母親の胎内の記憶であると述べられていたが、ここでは触れられていない)。

 たとえばある女性患者は、子供の頃、瀕死の子供がいる家を訪問したときの既視感を語った。この訪問の数カ月前に患者の弟が同じように重病で瀕死の状況にあったが、そのときにかんじた弟への殺意のゆえに、訪問の際には既視感を感じなかった(感じていたら殺意も意識化されてしまったであろうから)。この記憶は分析中に想起された際に事後的に既視感をともなうようになったのだ。

 「狼男」も有名な小指切断の空想を話すときに、くだんの前置きを振っている。この空想の遮蔽記憶である父親におみやげのナイフをもらった記憶をそれに先だって何度も話していたので、この前置きが振られることになったのだ。

 「狼男」の空想に関連して、子供の頃、好意を寄せていた少女の男根を目撃したという大学教授の空想が紹介される。フロイトのレオナルド論を読んで謎が解けたという。
 

「精神分析への関心」ほか


*「分析的実践から得た観察と実例」(1913年)

 『夢判断』に追加されなかった二例として「夢から目覚めたときの体位」(目撃した性交の光景の代わりにみられたとっくみあいの夢)および「断片的な夢」(象徴しか読みとれない夢。男性との散歩中、風船が浮かんでいる。これは同性愛的な夢である)。


*「精神分析への関心」(1913年)

 系統発生的なヴィジョンが明確にうちだされている。

 夢の言語は「古代的な表現体系」に属しており(「夢の言語では概念はまだアンビヴァレント」)、「言語発展と概念形成の最古の諸段階」に由来する(象形文字)。

 「無意識はただ一つの方言ではなく、それいじょうの方言を話す」。たとえば、同じ妊娠という事態が、嘔吐(ヒステリー)、感染予防(強迫神経症)、毒殺疑念(パラフレニー)というふうに、神経症選択によってさまざまなあらわれをとる。

 「心的な病のひじょうに多種多様な形態が、心理学的な概念で把握し記述することのできる根底では同一の過程の結果として認識される」。ヒステリーにおける「演技」(Darstellung)、強迫神経症における「儀式」、パラフレニーにおける「残滓」(「個体を支配している欲望の動きがかつてそこに表現をみいだしていた、いみをもった身体表現行為[演技]の残滓」としての「常同症[Stereotypiren]」)。

 男性性と女性性の祖型である欲動の「能動的な」目標と「受動的な」目標(「強迫神経症の素因」)のつねなる共存は、根源的な両性性をいみする。

 「精神分析とは、ある心的形成物を、時間的にそれに先行し、それがそのなかから発展してきた他の心的形成物へと還元することを指している」。

 「子供は大人の父親である」。「ひとはいつも初恋にもどってくる」。「大人の恋愛生活にみられる数多くの謎は、恋愛のなかの幼児的契機を強調することによってはじめて解決できる。こうした影響を扱う理論にとって問題なのは、もっとも早期の幼児の諸体験は、たんに偶然の出来事として個人の身におこるだけでなく、体質的にあたえられた欲動性向のさいしょの活動とも一致するということである」。

 「幼児の心に形成されたものは、その後のあらゆる発達にもかかわらず成人になっても何一つ失われることがない。……精神分析的な心理学は空間的な表現方法で言うほかないので、このような言い方をするのだが、それらは破壊されたわけではなく、上から別のものが覆い被さった(überlagern)だけである」。精神神経症における退行:「心的なアルカイズム」。

 「最近の数年間に、精神分析的な研究は、『個体発生は系統発生をくりかえす』という命題が心の生活にも適用可能にちがいないという点に気づくようになった(アブラハム、シュピールライン、ユング)。そして、精神分析的な関心のあらたな拡大がそこから生じてきた」。

 「文化史的関心」(「個々人の幼児期と諸民族の初期の歴史との比較」」)はそこに由来する。「夢についてえられた精神分析的見解を、諸民族の空想の産物である神話やメルヘンのうえに移すことは完全に可能である」。

 「精神分析は個々人の心的営為[Leistung]のすべてと共同体のそれとのあいだに、同一の力動的源泉を両者に仮定することによって、密接な関係をうちたてる」。

 「芸術の原動力は、他の個人を神経症へとおいこみ、社会をその諸制度の確立へとかりたてたのと同じ葛藤である。……芸術は欲望を断念させる現実と欲望を充足させる空想世界とのあいだの痛感領域を形成している。それは、太古の人類の万能をもとめる努力がいわば力をもちつづけている領域である」。

 「教育や先例とは無関係に年若い個人に欲動の抑圧がおこっているところでは、原始時代に要求されたことが最終的に人間の組織された遺伝的所有物になったと仮定するのが自然である。自発的に欲動を抑圧する子供もまたそれによってただ文化史の一部をくりかえしているにすぎないのであろう。こんにち内的な抑制となっているものは、かつては外的な、おそらくは時代の必要によって命じられた抑制であった。そしてこんにち、成長期の個々人の人間に外的な文化の要求としてせまりくるものもまたいつかはそのよにして内的な抑圧性向となりうる」。

「小箱選びのモチーフ」「子供の嘘の二例」「強迫神経症の素因」ほか


*「証拠としての夢」(1913年)

 重層決定、二次加工、肛門愛などについての言及あり。


*「夢のなかの童話素材」(1913年)

 後半では狼男の夢がとりあげられている。父親[の代理物]へのアンビヴァレントな感情が抑圧され、不安に転化。


*「小箱選びのモチーフ」(1913年)

 「人間とは現実によって満足されなかった欲望の満足のために空想活動を利用する」。『ヴェニスの商人』『リア王』にきわまるくだんのモチーフは、死という宿命の主体的な選択への「置き換え」(Erzetzung)であり、「古いアンビヴァレンツによって準備され、忘れられることができなかった太古からのあるつながりに沿ってなされる」「欲望の逆転」である。詩人の空想は、くだんのモチーフが被っている「歪曲」に「退行による加工」をほどこし、その「起源」を透かし見させる。三人の女とは、生む女(die Gebärerin)、性的対象としての女(die Genossin)、破壊者としての女(die Verderberin)であって、男性にとって避けてとおれない女性にたいする三通りの関係であり、母親像が一生のうちにたどる三つの形態である(さいごの段階は「母なる大地」)。


*「子供のうその二例」(1913年)
 売春まがいのことをしていた子守をとおして、金銭が性的なことをいみするようになっていた少女。かのじょが嘘をついて父親から小遣いをせびりとった背景には、父親にたいする無意識的な性的欲望がある。とはいえそれはあくまで無意識的な欲望なので、嘘をついて欲望を実現したことは否定されなければならなかった。父親に折檻されたことは、父親への愛を拒絶されたことをいみし、それがトラウマになった。
 ふたつめの例も少女であり、やはり父親にたいするつよすぎる愛着のゆえに思春期にいたって性的成熟に失敗した例である。父親を理想像のままにとどめておくために、かのじょは嘘をつくことで父親に同一化しようとした。


*「強迫神経症の素因」(1913年)

 タイトルの素因(Disposition)とは、神経症の病因としての「体質的な(konstitutionel)もの」の謂いであり、「偶発的な(akzidentel)もの」と対立する。前者は「生が人間のほうへ引き寄せるもの」であり、後者は「人間が生のなかにもちこむもの」である。

 本論はシュレーバー症例において着手された神経症選択の問題への回答を提示しようとした論文である。精神神経症の諸形態は、発症年齢が若い順にヒステリー(幼年期初期)、強迫神経症(幼年期の第二期、すなわち6〜8歳)、パラノイア、早発性痴呆(両者をまとめてパラフレニーと分類される。思春期以降)に分類できる。とはいえ、発症年齢のもっとも遅いパラフレニーは、もっとも幼い時期(自体性愛およびナルシシズム期)における制止あるいは固着が病因になっている。

 フロイトのある患者の症状は、不安ヒステリーから強迫神経症へと一変した。これには二通りの説明が可能である。「二カ国語で書かれた文書」のように、「同一の内容が相異なる言語で表現されている」という見方が一つ。いまひとつは、同じ患者がそのリビドー発達の過程で複数の弱点を被るという「仮説」。

 後者の説明によれば、強迫神経症は不安ヒステリーをひきおこしたのと同じ外傷への反応ではなく、それとは別の経験にたいする反応であるということになる(この仮定は、「偶発的な」病因は二次的であるとする前提に背く)。

 くだんの患者は、「幼児期の欲望固着に由来する動機から子供がほしいと願っていた」が、夫に生殖能力がないことがわかり、不安ヒステリーを発症した。かのじょは発症の原因が夫にあることを悟られたくなかったが、「いかなる人間もじぶんじしんの無意識のなかにひとつの道具をそなえており、それをもちいて他人の無意識のあらわれを解釈することができる」。そのため事実を悟った夫じしんが神経症におちいり、夫婦の性生活がうまくいかなくなった。夫が不能になったとおもいこんだ妻は強迫神経症を発症した。

 フロイトは強迫神経症を肛門愛的=サディズム的なRegungenにたいする反動形成ととらえている。くだんの患者は性器的な性愛を断念することで、それいぜんの肛門期への退行がおこったのだ。

 リビドーの発達段階について、フロイトは当初、「自体愛期(部分欲動)→性器の優位」という二段階図式をおもいえがいていたが、やがてその中間にナルシシズム期を含めた三段階図式へと考えをあらためる(シュレーバー症例)。さらにこの論文において、ナルシシズム期と性器愛の優位の間に「前性器的体制」をふくめた四段階図式へとシフトする。

 強迫神経症が肛門サディズム期に対応するという考えは、憎悪と肛門愛を強迫神経症に結びつけたジョーンズに負うところがおおきい。

 ところで男性と女性の区別は、性器愛が優位にある段階においてうまれ、前性器的体制においてはまだ存在しない。そのかわりに、能動的な目標をもった追求(Strebungen)と受動的な目標をもった追求の対立があり、それがのちに男女の対立に「ハンダづけ」(verlöten)される。このうち能動的な「追求」がサディズムに相当し、受動的なそれが肛門愛に相当する。

 サディズムは能動的な「制圧欲動」( Bemächtigungstreib 支配欲動)が性機能とむすびついたものである。肛門愛への固着は男性の場合、同性愛的素質を育む。

 このようなリビドー発達は、神経症のみならず、性格の発達においても作用している。性器機能の断念とともに女性は「口やかましく、刺々しく、独善的」になると同時に「みみっちく、ケチ」になる。これは肛門愛的=サディズム的特徴である。

 というわけで、肛門愛=サディズム的体制は、性器愛の優位に先立つものでもあれば、それに後続するものでもある。
 
 性格の発達においては、「退行」がスムーズにおこるのにたいし、神経症のばあいは退行への葛藤と反動形成があり、心的活動が意識的なものと無意識的なものに分裂するというちがいがある。

 前性器体制という仮説の問題点としてはまず、前性器的体制を肛門愛=サディズム期に限定していること(これについては翌々年の『性理論のための三篇』への追記において口唇愛的な段階への言及がなされるだろう)。

 ところで「知の欲動は、制圧欲動が昇華され、知的なものにまで高められた派生物」であり、サディズムと同じ根をもっていて、強迫神経症においては「疑念」というかたちで作用している。

  問題点の二つめとして挙げられているのは、リビドーの発達段階が自我の発達段階と対応していなければならないことである(後者が前者の条件となるということのようだ。いわく「自我発達がリビドー発達より時間的に先行する」)。この課題についてはとりあえずフェレンツィの仕事(論文「現実感覚の発達段階」)への期待が表明されているが、第二局所論を俟って一応の回答が提示されることになるだろう。本論文で言及されている強迫神経症における「超道徳」とは、のちの超自我のことであろう。「憎悪を愛に先行させる」この審級がサディズム期への退行を促すというイメージでとらえればつじつまがあう。

 強迫神経症が肛門愛=サディズム期への退行である一方で、ヒステリーは前性器的体制への退行によって説明できない。この点も今後の解明を俟たなければならないが、とりあえず、ヒステリーはヴァギナが性感帯となる思春期以前のクリトリス期(男性的な性愛)への退行であるという説明が可能である。

『トーテムとタブー』(第三論文、第四論文)

*『トーテムとタブー』(承前)

Ⅲ. アニミズム、呪術および思考の万能

§1

 アニミズムについて考察される。アニミズムはひとつの「世界観」であり、この「人類さいしょの世界観」はのちに宗教、ついで科学によってとって代わられる。

§2

 魔術、呪術、思考の万能について考察される。原始人と幼児は観念の万能(思考の過大評価)を共有している。

§3

 思考の万能ということが、原始人と神経症者との対比においてさらに考察されていく。思考の万能はナルシシズムに帰される(「知的自己愛」。ちなみに「ナルシシズム入門」は翌年の論考)。「未開人における観念の万能が証明されるとすれば、それが自己愛の証拠であるとみなしてよい。そうであれば、人間の世界観の発展段階を個人のリビドー発達の段階と比較する試みをあえておこなうことができよう」。自体愛→自己愛→対象愛という「発展段階」については、すでに二年前のシュレーバー症例において確認されている。いわゆる発達段階論、すなわち前性器的体制の観念は、本論文と同年の「強迫神経症の素因」において導入されることになる。

 §1における世界観の発展図式がふたたびとりあげられ、アニミズムが自己愛に、宗教が両親へのリビドー固着に、科学が外的な対象選択の段階であると位置づけられる。

§4

 呪術における思考の万能は、アニミズムにおいてはその万能性の一部が「霊」にゆだねられることになる。ここに宗教が発生する。[第1節においては、アニミズムが宗教以前の世界観であるとされていた。]未開人が投影によって情動を「人格化」することが、シュレーバーにおける神(「神の光」はシュレーバーじしんのリビドー)とパラレルであるとされる(シュレーバー症例は、シュレーバーを原始人になぞらえる一節で閉じられていた)。霊の創造は、「人間のさいしょの理論的業績」であり、タブーと由来を同じくする。投影されるのは無意識的な過程であり、霊は無意識である(心的装置の「根源的二元性」)。

 アニミズムは夢のプロセスと並行的であり、いずれも「二次加工」を被っている。


Ⅳ. 幼児期におけるトーテミズムの回帰

 マホニーはこの標題(Die infantile Wiederkehr des Totemismus)のうちに、トーテミズムの起源を幼児期に求める内容との「逆転」を読みとっている。

 
§1

 トーテミズムについて考察されている。レナシュによるトーテミズムの12の基準が掲げられ、さらにフレイザーとヴントによる別の基準が対置されて、人類学者のあいだに見解の相違があることが強調される。レナシュの基準には外婚制がふくまれておらず、フロイトじしんの見解と相容れない。マホニーはつづく§2がレナシュを「仮想敵」とする「対話」というスタイルで書かれていると指摘している。

 トーテムと呪物(Fetisch)とのちがいは、トーテムが個体ではなく種族を問題にする点にある。トーテミズムは宗教組織であると同時に社会組織であることが確認される(マホニーによれば、これは「宗教という厄介な問題を扱うことによって被る攻撃をかわす戦略」であるということになる)。

§2

 (A)トーテミズムの起源、および(B)族外婚の起源(C)トーテム組織とインセストタブーとの関係について考察される。

 (A)については、(α)「名目論的学説」(β)「社会学的学説」(γ)「心理学的学説」が検討される。

 (α)は、名字の必要性を由来とする説。(β)はトーテムを社会機能においてとらえるもので、デュルケムなどがこの説をとる。フロイトは[トーテミズムについて1865年にさいしょに記述したマクレナンに倣って]族外婚にトーテミズムの本質をみているが、フレイザーは族外婚をともなわないアルンタ族のトーテミズムをもっとも根源的なトーテミズムとみなしている。アルンタ族の霊魂受胎説においては、受胎が妊娠の結果であることが前提されていない(それゆえもっとも原始的な民族であるとされる)。そのかぎりで、トーテムは受胎の事実についての無知に由来している。このことはトーテムの母系性を説明するが、処女受胎説をとるキリスト教が受胎の事実に無知ではなかったのとおなじく、この説は根拠が薄弱である。フロイトはアルンタ族がトーテミズムの原初的な形態ではなく、末期的な形態であるとすることで族外婚の不在を説明しようとしている。

 また、フレイザーは、トーテム動物は一族がなりわいとするいわば商品なので、みずから食べることを避けたという説を提出している(それゆえ宗教的な意味はない)。

 (γ)フレイザーは、トーテムを投影による「魂の保管所」と位置づけている。初期のトーテム動物は、鳥類、蛇、蜥蜴、鼠のように敏活な動きや空中を飛ぶことにおいて「霊的動物」が選ばれていた。

 (B)族外婚をトーテミズムの本質ととらえるか(デュルケム)、あるいは両者の結合は偶然的であるかと考えるか(フレイザー)という意見の対立があり[レナシュには族外婚についての言及そのものがない]、フロイトは前者に与する。他方、インセスト・タブーを習慣的なもの(幼年期をともに過ごした者は性的対象にならない)とするヴェスターマルクの説ではインセスト・タブーの厳格さを説明できないとするフレイザーの反論にフロイトは賛同している。インセスト・タブーは本能ではない。むしろインセストへの欲望こそが本能である。

 最後に、インセストタブーの「歴史的由来説」として、ダーウィンの原始ホルド説が紹介される。

§3

 トーテム動物にたいするタブーが恐怖症とパラレルなものとして位置づけられ(標題にある「幼児期」への言及)、父親にたいするハンスのアンビヴァレンツ(エディプス複合)が想起させられ、さらにフェレンツィの症例「鶏人」アルパードの去勢複合が援用される。「トーテム=父親」説は、トーテミズムの核心をなす二つの掟(トーテム動物殺害の禁止、同一トーテム内での性交禁止)をうまく結びつける。

§4

 ロバートソン・スミスの「トーテム=生贄動物」論に依拠して、トーテム饗宴(供犠)について考察される。家畜化以前、動物はすべからく神聖であり、屠殺は個人にはゆるされず、共同体のみがなしえた。「個人が奪い取ってはならない生命、部族全員の同意と参加によってのみ生贄にされる生命、これは種族仲間そのものの生命と同列にあるものである」。生贄の肉を饗宴の列席者全員が食することは、タブーを犯した同族への罰と同じいみあいをもつ。同じものを食することで、食卓をともにする人たちのあいだに神聖な結びつきがうまれる(もともとはわかちあう食べ物そのものに神性が宿っているとされていた)。

§5

 族外婚(§1~2)、原始ホルド説(§2)、「トーテム動物=父親」説(§3)、「トーテム=生贄動物」説(§4)という、周到に敷かれてきた布石を総合するかたちで原父殺害説が披瀝される。

§6

 トーテミズムからの宗教の発展が考察される。その際、トーテム生贄および父と息子の関係が二つの「モチーフ」になる。

 ロバートソン・スミスによれば、神の観念はトーテム生贄の列席者としてうみだされた。同じ生贄の肉を食する同族の者らの神聖なきずなを象徴するものが神なのだ。生贄の肉を食することで、一族の者らはこの神に同一化する。一方、精神分析の臨床は「神とは高められた父にほかならない」と教えている。トーテムはさいしょの「父の代替」であり、神は「父が人間のすがたをとりもどした後代のすがた」である(「事後的服従」)。トーテム饗宴には、父を悼みつつ、父への勝利を言祝ぐというアンビヴァレンツがあらわれている。

 「家族」は原始ホルドの「再建」である。家長的制度は国家となり、神は王となる。

 生贄はトーテム饗宴との結びつきをうしない、たんなる神への供物となる(犠牲=自己放棄という比喩的ないみの定着)。
 
 セム族にみられる人間生贄は、神の起源を伝えている。「擬人的な神の生贄は、生贄行為の対象がいつも同じものであった、すなわちいまや神として尊崇されているもの、つまり父親であったということを率直すぎるほどに告白している」。

 農耕の開始とともに、息子は「近親性交的リビドー」をあらたに表明する(母なる大地の耕作)。

 キリスト教の原罪観念。キリストの自己犠牲は、贖うべき罪が殺人であることを証している。「息子は父とともにみずから神になる。否、じっさいは父親にとって代わる。息子の宗教が父の宗教と交替する。このいれかわりのしるしに、かつてのトーテム饗宴が聖餐式として復活させられる。ここではいまや同胞たちは――もはや父のではなく――息子の肉と血を享受する」。「われわれは長い時代をながめわたすことで、トーテム饗宴と、動物生贄、擬人神生贄、キリスト教の聖餐式とが同一のものであることを理解した」。

§7

 古代悲劇において贖なわれる罪過とは、原父殺害の罪である。

 「宗教、道徳、社会、芸術の起源がエディプス複合において出会う」。

 アンビヴァレンツの由来は不明だが、アンビヴァレンツが父へのコンプレックスに由来する可能性はある。つまり、父コンプレックスはアンビヴァレンツのひとつのあらわれなのではなく、その祖型であるということだろう。

 「個人の心的生活におけると同様の心の事象がおこる集団の心」が存在する(「集団心理、すなわち人間の感情生活における連続性、個人の死によって生ずる心の行為の中断をとびこすことを許すもの」)。それゆえ、「ある行為のために生じた罪意識が数千年にわたって存続し、この行為についてなにひとつ知るはずもない世代にあっても作用しつづける」。「どんなにつよく抑圧しても、歪曲された代償活動、およびそれにつづく反作用の余地がかならず残される。とすれば、いかなる世代も、重要な心の出来事をつぎの世代に隠しておくことはできないと想定してもよい。というのも、精神分析が教えるところでは、いかなる人間も、その無意識的精神活動のうちに、他の人間の反応を解釈可能にする装置をもっているからである。つまり、他の人間が感情の蠢きを表現する際に企てた歪曲をふたたび元に戻すことを可能にする装置をもっている。原父にたいする元来の関係がのこしたあらゆる習俗、儀式、掟のすべてをそのように無意識的に理解するという方途によって、後の世代もあの感情の遺産をうまく引き継ぐことに成功していたのであろう」。

 こうした系統発生的ヴィジョンは、ビオンの「前概念」をおもわせる。

 「われわれは原始社会の最初の道徳律や道徳的制約を、ある反作用、すなわち、行為者に犯罪の概念をあたえた行為への反作用と解釈した。かれらはこの行為を悔いて、このような行為を繰り返してはならないとし、また、この行為の実行が利益をもたらすようなことになってはならないと決心した」。デリダが指摘するように、ここには背理がある。この「悔い」が道徳および法の起源であり、それゆえ道徳や法に先立つものであるなら、この「悔い」はなぜ、どのように為されるのかが問われねばならないからだ。

 原始ホルドは「社会」以前である(さいしょの社会は原父殺し以後の「男性結合体」)。それゆえそれを「社会」として思い描くことはできない。「社会」としては純粋な虚構としてしか思い描けない。原父殺しが「事実」であるのは、とりあえず「思考の万能」を信奉する未開人や神経症者にとっての「心的現実」であり、それゆえその実体はあくまで原父の死の「欲望」である。とはいえ、未開人は神経症者ほど完全に思考と現実を同一視していないので、原父殺しは「歴史的事実」であった可能性もありうる。とおもうと、神経症者の現実にも一片の「歴史的事実」がふくまれていると前言が翻される。「いま現在、過剰な道徳の圧迫のもとにいる強迫神経症者たちが、さまざまな誘惑の心的現実にたいしてもっぱら身を防禦し、衝動をかんじたというだけでみずからを罰していると考えるのはただしくない。そこには歴史的現実も一要素となって入り込んでいる(Es ist auch ein Stück historischer Rearität dabei.)。これらの人びとは、その幼少時にほかならぬ邪悪な衝動をいだいたのであり、幼児の無力さにおいてなしうる範囲で、この衝動を実行に移していたのである」。「したがって、原始人においてもうたがいなく形成されていた心的現実がさいしょは事実的現実(faktischer Realität)と一体となっており、あらゆる証拠からして、原始人はやろうと意図したことを実際に行ったと想定するなら[あくまで「想定」であり、「行った」とは言っていない]、原始人と神経症者の類似はさらに根本的なものとして打ちたてられる」。神経症者および原始人における意図と行為の同一性は、行為が意図に還元されることをいみするだけではなく、そのぎゃくをもいみしうる、ということだろうか(幼児は「反省」「自制力」を身につけるまでは欲望と行為が一致していると『フロイトの生涯』のジョーンズは暗示している)。

 「思考と行為を網の目のように絡ませる作業」によって、「さいごのセンテンスにおいて逆転が生じ、読者はテクストの最初に連れ戻される」(マホニー)。

 宗教の起源が原父殺しにあるとすることで、フロイトはかねてからの「戦闘的な無神論」とユングへの憎悪を結びつけることができた(ゲイ)。『トーテム』は「アーリア的なもの、宗教的なものすべてをきれいに切り捨てるでしょう」(1913年5月13日付アブラハム宛書簡)。

 「母を食う空想を示唆する民族学的資料のほうが父を食う空想を示す資料よりも多いにもかかわらず、フロイトが母親についてはほとんどなにひとつ述べていないことはきわめて示唆的である」(ゲイ)。

 アスーンは増幅、複雑化、分節によっておりなされる本書の構成の音楽性を指摘している。第二論文と第三論文では、人類学的主題と精神分析的(臨床的)主題が「フーガ」を奏でているようだ。第二論文と第三論文のセクション分割はあるしゅの韻律をおもわせる。第四論文はクレッシェンド的な構成をもつ。

 本書はのちにつぎの著作で言及されている。『群衆心理学と自我の分析』(1921年)、『自我とエス』(1923年)、『自己を語る』(1924年)、『ある幻想の未来』(1927年)、『文化におけるいごこちわるさ』(1929年)、『続・精神分析入門』(1931年)、『モーセと一神教』(1938年)。

『トーテムとタブー』(第一論文、第二論文)

*『トーテムとタブー』(1913年)

 副題は「未開人の心の生活と神経症者の心の生活におけるいくつかの一致点」。

 「錯綜した[蜘蛛の巣のような]構成」(A・L・クローバー)は、本書がもともと4つの論文の寄せ集めであるためだけではないであろうし、「不幸にしてこの仕事にはほんのわずかの時間しかあてられないので、たえずあらためてあらたにその気分になるように強いねばなりません。そのために文体がわるくなっています」(ジョーンズ『フロイトの生涯』より引用)という事情だけでは本書の極度の読みづらさは説明できない。ラカンは本書を「神経症の産物」、マホニーは「精神分析家のみた夢の解釈」と形容している。


Ⅰ. インセスト・タブー

 第一論文はインセスト・タブーの考察にあてられている。

 トーテミズムは個体ではなく種ぜんたいを対象とする。トーテム(社会)は血縁(自然)に優先する。母系的トーテムの外婚性は、母親と息子の性交を不可能にするが、父親と娘の性交はかならずしも除外しない。  

 義母と息子の忌避(Vermeidung)は、各地で機知の対象となっている。この忌避は、義母のがわでの娘を委ねた他人への不信、および息子のがわでのじぶんよりまえに妻に愛されていた者への嫉妬、および妻との類似によって妻の性的魅力を傷つけるという脅威、くわえて性的な盛を過ぎた危機感から義母が子供たちに過剰に同一化することの危険性によって説明される。

 原始人にあっては、近親相姦への欲望がいまだ無意識になっていないので、厳格な禁止の規則を適用するひつようがある(精神分析的な見解への抵抗は「太古からあるけれどもひさしく抑圧されていたインセストの願望にたいする人間の根ぶかい拒否感の所産」である)。


Ⅱ. タブーと感情の動きのアンビヴァレンツ

§1
 
 タブーについて考察されている。

 「タブーというポリネシア語を訳すことはわれわれには不可能である。われわれはこの語のあらわす概念をもはやもっていないからだ」。

 タブーとは禁止そのもののことではなく、たとえば神聖/不浄という両義性を刻印されているがゆえに触れてはならないもののことをさす。禁止はそうしたタブーなるものがあらわれるさいの様態である(ようするに禁止というかたちでしか表象できないということであろう)。

 タブーは外部から課される禁止ではなく(それが道徳や法になるのはのちのことである)、動機づけをもたず、「自動的に」適用されるいわば内的な禁止である。

 タブーはほんらい宗教的な禁止ではないが、宗教的な禁止と結びつくことがある。それはのちに習慣や法による禁止となる。

 「タブーとは、タブーとされるものにひそむと考えられている魔力にたいする恐怖を客観化したものにほかならない」(ヴント)。
 ヴントによれば、タブーとは神聖/不浄という対立がうまれる以前の概念である(神をもちだすことによってこの対立がうまれる)。§4で、フロイトはこれにたいする異論を提出している。タブーはさいしょからアイビヴァレントな対立を前提するのであると。

§2

 タブーと強迫神経症とのアナロジーが展開されている。

 §1では、タブーの自動性が述べられていたが、ここでは「タブーとは、原始人のある世代にかつて外部からおしつけられたきわめて古い禁止である」とされている(原父殺しがはやくも暗示されているわけだ)。そしてこの禁止は、「相続された心的所有物」として遺伝する。生得観念の遺伝の信憑性についてはフロイトも慎重さを忘れていない。

 タブーの存在は、タブーが禁ずる欲望の存在を裏付けている。タブーのうちでもっとも強力なものはトーテミズムの基礎をなす二つの掟(トーテム動物を殺してはならないこと、および同一トーテムの構成員との性交禁止)である(ここでトーテミズムとタブーがむすびつけられる)。ここからフロイトは、この二つの掟が人類のもっとも古くもっとも強い欲望であることを導き出す。

 タブーの伝染性(転移可能性 Ubertragbarkeit)は、特権的な地位にあったり(王、酋長)、例外的な状況(嬰児、病者、死者)にある者への嫉妬(同一化)に由来する。後者は、その「よるべない状況(Hilflosigkeit)」ゆえ、みずからはなにもせず、世話をうけられる立場が嫉妬をかきたてるのだ。性的な成長をとげたばかりの若者も例外的な立場にある。かれらはこれから期待される享楽ゆえに嫉妬の対象となる。こうした者たちに同一化(「模倣」)したいという「誘惑」を禁じるのがタブーである。タブーの発する魔力(マナ)とは、このような嫉妬にほかならない。そのような模倣への欲望は、社会を崩壊させるにじゅうぶんである。原始人にとって、欲望と現実は同一であるからだ(「思考の万能」)。

§3

 敵の取り扱いについてのタブー、支配者のタブー、死者のタブーという3つのケースが順次検証される。原父殺しの仮説を提示するための布石である。

 支配者について。全能性を付与されるので、すべてが支配者の責任となり、さまざまな不幸の責任をとるために退位させられたり、殺されたりすることがある。それゆえ、殺されてもいいように、あらかじめ恨まれている人を王につかせたりする。

 未開人と支配者との関係は、神経症者にとっての子供と父親との関係になぞらえられている。フレイザーによれば、最初の王は異民族出身であり(モーゼ?)、生け贄に供された。

 死者について。ヴェスターマルクは、未開人にあっては「人間はそれが暴力によるものにせよ、魔術によるものにせよ、とにかく殺されることによって死ぬことになっている」と指摘している。フロイトはこれを、人間の死はエディプス的な殺意の実現であると解釈する。「無意識的思考からすれば、自然死をとげた者も殺されたものなのである」。喪の病理学的なあらわれである「強迫呵責」とは、この無意識的な殺意への自責の念にほかならない。ある人にたいする強い感情の備給(拘束)は、このようなアンビヴァレンツをかならずともなう。ネガティブなつよい感情をポジティブな感情によって抑圧することが神経症の病因となる。
 
 原始人にとって死者の霊魂が魔物になるのも、死んだ者にたいするみずからの殺意が投影によって死者の魂に移しかえられるのだ。死者のタブーは、「死にたいする意識的苦痛と無意識的満足との対立[つまりアンビヴァレンツ]に由来している」。

§4

 投射(前節)は原始的メカニズムであり(cf.『日常生活の精神病理学にむけて』)、「とくに防衛を目的としたものではない」。もともと防衛にむすびついた機制ではなく、防衛においてまったきいみをみいだす機制であるということだろう(アスーン)。

 原始人には、現代人以上のつよいアンビヴァレンツがみとめられ、このアンビヴァレンツが弱化するにしたがって、タブー(「アンビヴァレンツの葛藤の妥協の症状」)も消滅した。神経症者はこのようなタブーを「隔世遺伝的残滓(atavistischen Rest)」として継承している。前述のとおり、ヴントとはちがい、フロイトはタブーはこうしたアンビヴァレンツをすでに前提していると述べる。タブーの本質はこうしたアンビヴァレンツであるが、この性格が弱化するにつれ、タブーという語そのものも消滅していく。

 タブーは良心の起源である(「タブー的良心はおそらくわれわれの出会う良心という現象のもっとも古い形であろう」)。良心とは「ひとがもっとも確実に知っているもの」であり、「われわれのうちにある一定の欲望の蠢きを棄却すること(Verwerfung)の内的な知覚」である。しかもこの「棄却」は、他のなにものを引き合いに出すひつようもなく、それじたいとして確信されている。無意識的罪責感がこれにあたる。良心は抑圧の結果、「不安」というかたちをとる。

 「無意識的事象は形を損ずることも修正を加えられることもないために、無意識的欲動は太古からそのまま後代へ移される。……無意識的事象が文化発展の理解にとって重要であることはあきらかだ」。

 原始人(投影)と強迫神経症者(抑圧)のちがい。前者はタブーの違反によってみずからに罰がくだることをおそれるが、後者はじぶんいがいのひとに罰がくだることをおそれる。そのかぎりで原始人は利己的であり、強迫神経症者は利他的であるが、後者がおそれているのはみずからの殺意を実現することで罰されることである。

 タブーの違反者が罰を受けないとき、違反者が実現した享楽がかきたてる誘惑を抑圧することが人間の刑罰システムの基礎をなしている。すなわち、「犯罪に復讐する社会も犯罪者と同じ禁止された心の蠢きをもっている」。

 また、タブーによる接触の禁止は神経症者におけるそれのように性的な領域にかぎられない(toucher:触れる/関わる)。

 かくして、タブーと強迫神経症との比較をとおして「神経症心理の研究は文化発展の理解にとって重要である」ことがあきらかとなる。

 「神経症の個々の形態と文化的形成との関係」はつぎのようである。すなわち、神経症は芸術(ヒステリー)・宗教(強迫神経症)・哲学(パラノイア)という社会的形成物との一致(Ubereinstimmungen)をしめすと同時にそれらの歪曲(Verzerrungen)であり、「カリカチュア」である。神経症者は社会で集団的な作業によってうみだされたものを「個人的な手段によって」うみだす。
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