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「自慰論」「精神分析における無意識の概念に関する二、三の覚書」


*「自慰論」(1912年)
 『性理論にむけての三篇』(1905年)「ヒステリー患者の空想とその両性性との関係」「『文化的』道徳と現代人の神経過敏」(いずれも1908年)などにおける自慰についての見解が確認される。ストレイチーによれば、これ以後、自慰への言及はもっぱら「ハンス」症例におけるような去勢脅威という文脈に限定されることになる。

 シュテーケルが現実神経症を心因性に帰していることにたいし、「ドラ」症例における「身体側からの反応」(somatische Entgegenkommen)および「真珠貝の核の砂粒」の隠喩をふたたびとりあげて反論している。また、同じくシュテーケルの神経衰弱という大雑把な括りが神経症選択の問題を見えなくすると批判している。

 「いかなる文化的な人間もあるていどの抑圧せられた倒錯的欲動や、またあるていどの肛門性愛や同性愛その他、および若干の父親コンプレックスと母親コンプレックス、さらにその他のコンプレックスをもっている。それはちょうどある有機体の元素分析において、炭素、酸素、水素、窒素、それに硫黄の少々はかならず発見されるのと同じことである。各有機体相互間にみられる差異をつくりだしているのは、これら諸元素の混合度合、それら諸元素の結びつきの体制である」


*「精神分析における無意識の概念にかんする二、三の覚書」(1912年)

 ロンドン心霊研究協会に寄稿した英語論文をハンス・ザックスが独訳。

 無意識が潜在的なのは、力がよわいからではない(力がよわいために潜在的なのは前意識である)。力が強烈なのに潜在的であることが「力動的」とされている(「強烈で、はたらきつづけているにもかかわらず、意識の面にはちかづかない表象」)。「力動的」ということにかんして、諸力の葛藤という側面(ラプランシュ=ポンタリス『事典』)は言及されていない。意識のそとにあるという点で、前意識も「記述的」には無意識にふくまれる。無意識と前意識のちがいは、「防衛」の有無である。
 「無意識はわれわれの心の営みを基礎づけている諸過程における規則的な、避けることのできない段階である。おのおのの心理的作用は無意識的なものとしてはじまり、抵抗に出会うかで合わないかで、無意識的なものにとどまるか、それともさらに発達して意識の領域にふみこむことになるかのいずれかである。前意識的な営みと無意識的な営みとのちがいは本質的なちがいではなく、『防衛』が登場するにおよんではじめて生じてくる」。このことは、写真原板の隠喩によって説明されている。

 このあと、夢においては無意識的な表象の一部が歪曲を被って意識に浮上するというくだりがある。

 結論部では、「それを構成している個々の過程が無意識的であるという特徴によって、その存在をわれわれに知らせる体系を、われわれは、ほかにもっと適切で、あいまいでない表現もみあたらないので、『無意識』と命名する」とのべられている。

 ストレイチーによれば、「フロイトのもっとも重要な論文のひとつ」であり、3年後のメタ心理学論文「無意識」の内容を先取りしている。 本論文における「記述的」「力動的」「システム的」という無意識という術語の三つの用法は、「力動的」用法への言及がない「無意識」論文より明解である。さらに「システム的」用法が第二局所論におけるエス/自我/超自我の三区分を先取りしている。とストレイチーはいうのだが、そもそも「システム的」な説明というのがどのぶぶんを指すものかよくわからない。ちなみに岩波版『全集』の解題はストレイチーのそれの引き写し。
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「性愛生活がだれからも貶められることについて」他


*「愛情生活のもっとも一般的な蔑視について」(「『愛情生活の心理学』への諸寄与」第二章、1912年)

 岩波版『全集』の邦題は「性愛生活が誰からも貶められることについて」。

 精神分析の需要がもっとも多いのは心理的な性的不能のケースである。このような症状の原因は、「リビードがその正常となづけられるべき最終的形態にまで発展していくことを阻害されている」ことにある。

 リビードには「愛情的」な流れと「官能的な」流れという二つの流れがあり、この「二つの流れが合流してはじめて完全で正常な性愛行為が可能になる」。ふたつの流れのうち、「愛情的」な流れのほうがより古い。じっさい、初期の性的満足は、生命維持活動とむすびついている。言い換えれば、性欲動は自己保存欲動に委託している。いずれにしてもさいしょは両者がむすびついている。思春期にいたって、増進したリビード量をさいしょの性的対象にむけようとするが、その頃にはすでにインセスト・タブーが機能していて、それができない。そこで、もともとの対象(母親)を「原型」とする別の対象が選び出され、それに性欲動がむけられる。ここにおいて「愛情」と「官能」が同時に満たされる。

 この過程がうまくいかないケースとして、同年の「神経症の発症類型について」において挙げられている「欲求不満」(外的原因)と「固着」(内的原因)が指摘されている。

 「愛情」と「官能」を一致させられない(「愛情分裂」)こういう男性は、性愛の対象を蔑視することで、「愛情」とむすびつけずに「官能」だけを満たそうとする。かくしてかれらは性交不能ではないが、性交によるよろこびを得ることはない(神経衰弱者はすべからくこの範疇に入る)。そもそも、「教養ある人間」においては、「愛情」と「官能」が合流しているケースはごくわずかである。それゆえこれは文明病
の性質をもつ。

 一方、女性のばあい、性愛対象の蔑視はみられない。女性は教育によってながいこと性的な禁欲を課されているので、「官能」が「禁止」と結びついている。それゆえ、禁止されている恋愛(姦通)においてはじめて正常な性を営むことができる。

 男性は「愛情」と切り離すことによって「官能」をみたそうとするが、女性は「禁止」という状況をつくりあげることで「官能」をみたそうとする。
 
 「女性が愛情生活に官能活動禁止という条件をもちこむことは、男性における性愛対象蔑視という欲求に照応する。ともに、教育が文化的諸根拠から、性的成熟と性的活動とのあいだに長期の猶予期間を要求した結果であって、それは、愛情的と官能的の二つの流れの不一致の結果であるところの心理的性交不能症を逃れようとする努力なのである」

 とはいえ、「リビドーの勢いを増大させるためには障害物がひつようである」こともまたたしかである。そのような障害があればこそ、人類は性欲動を別の活動にふりむける昇華をとおして、高度な文明を築いてきたのだ。それゆえ、「人間は性欲の満足を阻む自然の諸抵抗が微弱なばあいには、性愛をじゅうぶんに味わうべく、いつの時代にも因襲的な抵抗物を社会にもちこんでくる」。キリスト教はその最たるものだ。

 「こういうと奇妙にきこえるかもしれないが、性愛欲動の本性そのもののなかに、その完全な満足達成を阻もうとするようななにかがふくまれているのではないか」

 その根拠:(1)最初の対象が禁止されることで性欲動はつねに「代理」満足に甘んじることになる。それゆえそもそも性欲動が完全にみたされることはない。
 (2)また、さいしょは断片的な自体愛に分散していた性欲動は、それが統合される過程で「その一部がまえもって抑圧されたり、別の用途に利用されなければならなかった」。具体的には「糞便を愛好する欲動成分」と「サディズム的欲動成分」である。前者は人類が直立歩行によって嗅覚を退化させた結果、嗅覚が性愛の源泉ではなくなったためであるとされる。いずれにしてもそれゆえに性欲動はさいしょから完全な満足を阻まれている。

 「こうしてわれわれは、性愛欲動の要求と文化一般の養成とのあいだを調停することは不可能であり、文化の発達の結果として諦めや苦悩、さらにはまた、ごくとおい未来のことではあろうが人類滅亡の危険は到底避けることができないのではあるまいかと考えざるをえない」。ただし、「人類の別の発達路線」が発見されれば、この運命を修正できるかもしれないという予測で論文は結ばれている。

 精神分析は最終的なこたえを提示できない。「より有害なもののかわりにより有益なものを置くという目的でいろいろの改革運動が精神分析を利用してくれるならばそれで結構なのである」 


*「分析医にたいする分析治療上の注意」(1912年)

 くだんの技法論六篇のうちの一篇。メモのとりかたなどについて高度に実践的なアドバイスをしている。

 分析家自身が分析を受け、じぶんのコンプレックスをしっておくことがのぞましい(もともとチューリッヒ派のアイディアであるらしい)。とはいえ、分析の場で患者にじぶんのコンプレックスをさらけだして共感をえようとすることはやめるべきである。「分析医は患者にたいして不透明な存在でなければならない」「分析医はじぶんを抑制し、じぶんじしんの願望よりも被分析者の能力のほうを基準にしなければならない」。「分析家の欲望」への言及は要チェック。

 「分析医は、患者の提供する無意識にたいして、じぶんじしんの無意識を受容器官としてさしむけ、話者にたいする電話の受話器のようなやくわりをはたさなければならない」

 患者に精神分析の本や分析家の著作を読ませることもフロイトはこのまなかった。

「神経症の発症類型について」

*「神経症の発症類型について」(1912年)

 ストレイチーが指摘するように、シュレーバー症例における指摘を発展させたもの。

 病因の4つのタイプ
a)「欲求不満」(Versagung 岩波版『全集』では「不首尾」):外的な条件ゆえに願望がみたされない。
b)「固着」:実現可能な満足であっても「内的困難」のゆえにみたされない。これは「欲求不満」の一事例とみなしうる。
c)「成長の制止」:未熟なため願望がいだけない。b)の極端なかたち。
d)量的(経済論的)契機:新たな体験がなくてもリビードの量が域に達したために「自然発生的に」発病する。思春期や閉経期におこりやすく、あるしゅ周期が関係しているばあいもある(フリース説への暗示?)。リビードの備給が急増したためにリビードの堰き止め(Libidostauung)がおこり、満足にいたらない。「リビード量の相対的上昇は絶対的上昇と同じ作用を果たしうる」。
 リビード量の重要性は、精神分析のつぎの二つの命題を確証する。(1)神経症が自我とリビードの葛藤からうまれること。(2)健康な状況と神経症の状況とは質的にことなるものではなく、健康体であってもリビードの克服という課題と格闘しなければならない。

 とはいえ以上4つのタイプのいずれかに純粋にあてはまる神経症患者はおらず、すべての神経症は複数の病因が複合的に作用している(ところが数行後では「純粋な形で観察されることもありうる」とある!?)。4つのタイプは「こころの経済においてあるしゅの病原的布置がつくりだされるさまざまな道筋(Wege)にすぎない」。この布置そのものはこころの生活において新たなものではなく、もっぱら量的契機によって病原的となる。
 神経症が内因的か外因的かという問いの立て方は適切ではない。「精神分析はわれわれに、運命対体質という外的・内的契機の不毛な対立関係を放棄するよううながし、神経症発症の原因となるものを、さまざまな道筋でつくりだされうるとくていの心的状況のうちにいつもみいだすことをおしえた」。

 ストレイチーによれば、「欲求不満」という概念については、「『文化的』性道徳と現代人の神経過敏」(1908年)においては内的障害として、シュレーバー症例および同時期の二論文においては外的障害としてあつかわれており、本論文ではいずれをもふくめた包括的な概念としてあつかわれている。ラプランシュ=ポンタリスも同様の見解を提示している。「フロイトは、神経症が現実における欠如(たとえば愛の対象の喪失)によってひきおこされるばあいと、主体が、内的葛藤か固着の結果、現実が提供する満足をみずから拒んでいるばあいとを区別するが、かれによると、Versagung はこれら二つのばあいを統一しうる概念をふくんでいる」(『精神分析事典』)。じつにふくざつな概念なのだ。ラカンによる剥奪/欲求不満/去勢の図式も参照するひつようがあるだろう。

 内的な原因についてストレイチーはユングの影響を指摘している。

「転移の力動性について」他

*「精神分析の基本原理ともくろみについて」(1911年)
 発達段階への言及あり。

*「民話の中の夢」(1911年)
 オッペンハイムとの共著。1956年に発見され、1958年に発表された。肛門愛が前性器的な体制と位置づけられている。

*「精神分析療法中における夢解釈の使用」(1911年)
 中絶した「技法概論」の構想の産物。スタンダード・エディションは、この時期の「技法に関する諸論文」6篇をまとめて掲載している。1911年の本論文を筆頭に、「転移の力動性について」「分析医にたいする分析治療上の注意」(以上1912年)「分析治療の開始について」(1913年)「想起、反復、徹底操作」(1914年)「転移性恋愛について」(1915年)がそれである。ストレイチーによれば、フロイトはこれら6篇を連続性のあるものとみなしていた。最後の4篇は1918年に『精神分析技法について』という見出しでまとめて再版された。まとまった技法論としては、「フロイトの精神分析の方法」(1903年)および「精神療法について」(1904年)以来15年のブランクがあった。本論文では「夢の原型」を想定することの愚などがのべられている。

*「転移の力動性について」(1912年)
 転移が分析の障害と位置づけられていることは、つぎのような軍事用語の使用からもわかる。「転移はつねに抵抗の最も強力な武器であるようにおもわれる」。「分析医と患者、知性と本能生活、認識と行動化への志向とのあいだの闘争は、分析治療中、もっぱら転移現象というかたちで展開される。この闘争の場において神経症の永久的治癒としていいあらわされるような勝利をわれわれはかちとらねばならない」。
 とはいえ、転移だけが「患者の精神の内部に隠され忘れられた愛情の動きを現実的なものにし、はっきりと顕在化する」といういみで、転移は不可避である。「じっさいに存在しないもの、ただ影しかないものをとらえて征服することはだれにもできないのだから」(これは幕切れの一節)。
 また、本論文では、精神分析が器質因を軽視するとの非難にたいして、器質因と「偶然的要因」(「素質および境遇 Δαιμων και Τυχη」)の両者が作用していることを強調している。「そういう非難は、現実をじっさいにおこっているようにありのままに理解するのとは反対に、その現象に関与している数多くの原因のなかから原因となる契機をただ一つだけ取り出して、それで満足しようとする、因果関係にたいする人類一般の視野の狭い要求に由来している」。この問題は同年の「神経症の発症類型について」でさらにくわしく探究される。

シュレーバー症例論(その2)

*「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」(1911年)

(承前)

抑圧の3段階
(1)固着(「各抑圧の先駆段階」)
(2)原抑圧
(3)抑圧されたものの回帰

 固着という観念は発達段階の存在を前提しているが、発達段階論は1913年以後に明確なかたちで提示される。原抑圧の概念はこの症例が初出である。やはり1913年の『トーテムとタブー』がこの問題含みの概念にひとつの解答をあたえることになるであろう。この症例においてはとりあえずその事後的な性質が指摘されている(原抑圧は「沈黙の裡におこなわれる。われわれはそれについてなにもしらない。ただ、そのあとにつづく諸現象からそれを推定しうるのみである」)。

 ところで「パラノイアの妄想は哲学的体系のカリカチュア」(『トーテムとタブー』)であり、「シュレーバーは精神科の教授か精神病院の院長にでもなれた」(1910年4月22日ユング宛書簡)。「パラノイア患者から学ばなければなりません」(1908年3月25日フェレンツィ宛書簡)。

 シュレーバーの妄想体系は、フロイトによって説明される以前に、みずからのパラノイアのメカニズムを見事に説明している!

 「太陽の光、神経繊維、精子の縮合によって構成された『神の光』[シュレーバーを懐妊させるもの]は、じつは物的に表現され、外界に投影されたリビドー備給にほかならない」

 シュレーバーはフロイトのリビドー理論をいわば先取りしているのであろうか。これに釘を刺すように、フロイトは述べる。

 「わたしはシュレーバーの著書『回想録』の内容をじぶんが知る以前からパラノイアの理論を発展させていたという事実を証明するために、友人や他の専門家たちの証言を求めることもできる。わたしが信じている以上に私の理論に妄想がふくまれているかどうか、あるいはこんにち他の人びとが存在していると信じている以上に多くの真理がシュレーバーの妄想にふくまれているかどうかの判定は、今後にゆだねられねばならないだろう」

 本篇に数カ月遅れて執筆された「補遺」においては、同時期のレオナルド論を想起させる「鷲」のシンボリズムについての言及があるほか、
二年後の『トーテムとタブー』を予告する記述がみられる。とくに『トーテムとタブー』の最大の論点となる系統発生についての確信である。
「シュレーバーはじぶんなりに太陽とその子との関係にたいする神話的な表現を再び見出した」。そして締めくくりの一節には、「夢と神経症のなかには野蛮な原始人が見出される」と読める。

 キノドスによれば、本症例におけるリビドー備給の撤収という観念は、後年の「現実の喪失」(1924年)、「現実の否認」(1927年)という概念を先駆けるものである。

 同時期のレオナルド論とおなじく同性愛をテーマにしたこの症例の背景にフロイトじしんの同性愛的な愛憎を読み取ることはむずかしくない。たとえばアドラーとの敵対関係だ。女性化にたいする抵抗というパラノイアの機制にかんしてフロイトは「男性的抗議」というアドラー的概念を皮肉たっぷりに援用している。また、シュレーバーの妄想をあまりにも性愛化している点は、ユングの反感をも大いに買い(「抱腹絶倒もの」)、来るべき破局を確実なものとすることにあずかった。フェレンツィにたいしては、フェレンツィじしんの言によれば、「共著者」の名目をちらつかせて秘書として体よく利用としたものの、仕事の内容(たんなる口述筆記)に文句を言われると、手柄を横取りするつもりかと腹を立て、その後は一人で仕事を進めたとされる。

 シュレーバーのパラノイアがフロイトのいうような同性愛的な原因によるものではなく、父親の教育に原因をもつとする批判は複数の論者によって提出されている。モートン・シャッツマンは、「シュレーバーが超自然的な啓示と考え、医者たちが精神病の症状とみなした経験は、かれにたいする父親の扱い方の変形されたもの」であるとしている。シュレーバーの変身妄想は、「無意識的で粗野な自然を意識的で高貴な自然につくりかえること」という父親の「教育」思想の反映であろう。のみならず「父親が子供のときのかれに、その経験にはたらきかけるある操作のパターンを教え込んだために、のちにかれは神にたいするかれの奇妙な関係が、父親にたいする子供のときの関係の再体験であることを見抜くのを禁じられていると感じた」(『魂の殺害者』)。たとえば、家族が家長にしたがうのはとうぜんであるという前提、あるいは親に統制されている状態を「自己統制」と信じ込まされるという自己暗示によって、父親の影響を意識にのぼらせることができないようにされていたというわけだ。ぎゃくに「シュレーバーは父親に迫害されたことを信じたくないという願望を支えるために知覚経験をつくりあげているようにおもわれる」。シュレーバーにあっては神が「光線」によってシュレーバーを懐妊させる一人の「男」として性愛化されている。
 モーリッツ・シュレーバーのメソードの真の暴力性は、それが適用されている者にその暴力性を意識させないところにこそあるだろう(いっしゅの生政治だ)。犯罪の事実だけでなくその証拠そのものをも完全に隠滅したナチスのシステムにも比すべきこの巧妙な「教育」のおかげで息子シュレーバーにあっていわば父の名が排除されたのだ。

 シャッツマンはラカンの一節を引用している。「妄想とはいかなる現象であろうか。われわれにいわせれば、妄想とは、否認という言葉が含む本質的な二律背反を含めた意味での否認である。否認されたものがある意味では認識されていることを認めざるをえない系統的否認の場合にあきらかなように、否認は認識を前提とするからである。……じっさい、被影響感や自動作用感において、当人がじぶんの産物をじぶんのものと認識していないことはあきらかであるとおもわれる。われわれがみなが、狂人は狂人であると同意するのは、この点においてである。しかしむしろ、狂人がじぶんの産物を知っていることこそ、おどろくべきことではなかろうか。むしろ問題は、狂人がじぶんの産物をじぶんのものと認識することなく、そこにおいてじぶんについてなにを知っているのかを見出すことになるのではなかろうか」(「心的因果性について」)

 精神病をエディプス的な図式におしこめようとしていることにたいしてはドゥルーズ=ガタリらの批判が名高い。また、サンダー・L・ギルマンによれば、シュレーバーの「女性化」はユダヤ人になることへの恐怖を表わしている(じっさい、『回想録』から反ユダヤ的とおもわれるくだりをひろいだすことは容易である)。「シュレーバーの妄想体系は病んだユダヤ人というレトリックにもとづいているのだが、フロイトはこのレトリックを読もうとせず、また読めもしなかった」(『フロイト・人種・ジェンダー』)。フロイトは研究対象であるシュレーバーに過度に「同一化」することでみずからのユダヤ性を[中立的な科学の言説によって]抑圧し、結果的に反ユダヤ主義に与することになった。

 シュレーバーの「基本語」について鈴木國文はつぎのように述べている。「ラカンは基本語という現象がこの回想録のなかでみごとに定義されているという印象をもったわけだが、じつは、この回想録のどこを呼んでも、基本語の定義は書かれていない。……このことは[ぎゃくに]ひじょうに重要な基本語の特徴と言うべきだろう」。この指摘はおもしろい。ただし、その特徴なるものが鈴木の言うように「シュレーバーの内から表れたものではなく、まったく外から与えられる」という点に還元できるかどうかは別として。

シュレーバー症例論(その1)

*「自伝的に記述されたパラノイア(妄想的痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」(1911年)

 岩波版『全集』のタイトルからは「(妄想的痴呆)」が恣意的に省かれている。理由は不明。

 「人間の通常の思考からはるかに隔たった特異な思考形成といえども、やはり精神生活のもっとも一般的な了解可能な感情の動きに由来するものである」。これはフロイトのかわらぬ観点。本論においては、投影にしろ、リビドーの撤収にしろ、正常なケースにおいてもみられる機制であるとされている。

 「シュレーバーの妄想の二つの主要部分……は、かれの妄想体系のなかで、神に対する女性的態度によって結びつけられる」

 つまり、主治医フレクシッヒへの同性愛的愛着が救済妄想によって「合理化」される。「脱男性化はもはや侮蔑ではなく『世界秩序にそくした』ものとなり、大きな宇宙的な法則にむすびつき、没落せる人間界の新しき創造という目的にやくだつのである。……このようにして二つの互いに相克しあう部分の葛藤をともに満足させる妥協形成的な解答がみつかったわけである」

 ちなみに「世界秩序」とはシュレーバーの父親ダニエル・ゴットリープ・モーリッツの思想体系のキーワードである。

 「ヒステリーが圧縮の機制をもちいるのと同じように、パラノイアは分裂の機制をもちいる」

 たとえば、フレクシッヒ/神、上のフレクシッヒ/中のフレクシッヒ、上位の神/下位の神……といったように。
 
 クラインによれば、このような分裂は自我の分裂の結果であるということになるようだ。キノドスは、ここに「自我の分裂」という晩年の概念の先駆をみてとっている。

 そしてパラノイアの治療においては、このような「分裂」によって隠されている同一視を探究しなければならないとされる。

 「かりに迫害者フレクシッヒがかつて愛された人物であったとすれば、神もまた同じようにかつて愛されたもう一人の人物いやむしろもっと重要な人物の再現にすぎない」

 すなわち、神は父親であり、[転移の対象]フレクシッヒは兄である(シュレーバーの父は早逝し、その地位を兄が継承している)。

「神経症の疾患形式は各個体におけるリビドーと自我の発達史の原版を再現し証明する」というわけである。

 女性化空想は、「父と兄にたいする憧れの性愛化の増大」である。

 幼児期の父親にたいする女性的態度への退行とも、あるいは、父親による「去勢の威嚇」が、「女性に転換したいという願望空想に空想形成の素材をあたえた」とも説明されている。

 子宝に恵まれないことをコンプレックスにしていたシュレーバーにとって、「もしじぶんが女だったら[神の]子供をもうけることができた」という考えは好都合でもあった。シュレーバーにとって息子は、父と兄亡き後「満たされぬ同性愛的なやさしい愛情が注ぎ込まれるべき」対象となるはずであった。

 ところで「すべてのパラノイアの妄想は、『私(男性)が、彼を愛する』という命題にたいするさまざまな反対意見として表すことができる」

(a)迫害妄想:「わたしはかれを愛さない=憎む」→「かれは私を憎む」(投影)
(b)被愛妄想:「わたしはかれを愛しているのではなく、かのじょを愛している。かのじょがわたしを愛しているからだ」
(c)嫉妬妄想:(α)アルコール中毒:「あの男を愛しているのはわたしではない。あの男を愛しているのはかのじょだ」(β)女性の嫉妬妄想:「わたしが女たちを愛しているのではない。かれが彼女たちを愛しているのだ」
(d)誇大妄想:「わたしは愛することをしないし、なんぴとをも愛さない」=「わたしはわたしだけを愛する」

(a)においては文の動詞が、(b)においては目的語が、(c)においては主語が、(d)においては文全体が否定されている。

 「投影においては、内的な知覚(「私はかのじょを愛している」)が無意識内に抑圧され、そのかわりにその抑圧された内的知覚の内容がいっしゅの歪曲を受けた後に外界の知覚(「かのじょは私を愛している」)というかたちで意識されるようになる」

 ラカン的にいえば、象徴界から排除(verwerfen この語はつかわれていない)されたものが現実界に回帰するのだ。

 この症例以前にはフロイトはパラノイアの機制を投影に帰していたが、この症例においてフロイトは考えを変える。投影はパラノイアに固有の機制ではない。パラノイアに固有なのは同性愛的欲望にたいする防衛である。

 同性愛的な対象からリビドーを撤退させ、そのリビドーを自己へと向け変える。これは自体愛的段階から対象愛的な段階への媒介のやくわりを果たす自己愛的な段階への退行である。このような自己愛(ナルシシズム)の概念が導入されたのはこの症例である(厳密には前年に『性理論のための三篇』に追加された注が初出)。アスーンが指摘しているように、この概念がパラノイアおよび同性愛という契機にそくして導入されたことは注目してよい(『精神分析著作事典』)。

 外的対象へのリビドー備給を撤回したために、シュレーバーにとって「外界存在のすべてがどうでもよいもの、無縁のものになった。……世界没落はこの内的な破局の投影である」。

 そして妄想はこのように没落した世界の「再建」の手だてにほかならず、「抑圧過程を逆戻りさせ、リビドーから遮断された対象にふたたびリビドーを備給せしめるところの回復過程である」。「われわれが病気の産物と見なす妄想形成は、じっさいには回復の努力である」というわけだ。

 そしてそれは投影によってなされる。「患者の内界に抑圧された感覚が外界に投影されるという言い方は正しくない。内界で否定されたもの(das innerlich Aufgehobene)が外界からふたたび戻ってくると考えるべきである」。

 キノドスが指摘しているように、この症例において投影は「抑圧された[たえがたい]内容の外界へのたんなる排出ではなく、ぎゃくに、『外側から』回帰するものは、『内側で』破棄されていたものを起源としている」と理解されている。

 パラノイア患者は、「ほかの神経症患者が秘密として隠しているものを、むろん歪曲されたかたちでではあるが、漏らすことがある」。

 ラカンがのべたように、いわば無意識が剥き出しになっているのだ。

 「ヒステリーにおいては、対象から遊離せしめられたリビドーはそっくりそのまま身体的神経支配あるいは不安に転化される。……パラノイアの場合には遊離したリビドーが自我に向けられ、自我の拡大のために使用される」。かくして「昇華された同性愛から自己愛への逆戻り」がパラノイアに固有な退行なのだ。

 ところで、フロイトのいうとおりであるとすれば、シュレーバーにおいて、フレクシッヒにたいする迫害妄想が世界没落空想に先行するのは順序的に矛盾しているのではないか。こうした反論にそなえて、フロイトはつぎのように説明している。

 リビドー備給の撤収は全体的でも部分的でもありうる。最初にフレクシッヒにたいするリビドー備給の遮断があったのはまちがいのないところで、「それにつづけて妄想が発生したが、この妄想は(起こってしまった抑圧[=リビドー遮断]の目印としての否定的な特徴をともないつつ)ふたたびリビドーをフレクシッヒへと回帰させ、抑圧が発揮していた効力を廃棄してしまった(aufhebt)」。その結果、廃棄された抑圧をもとにもどすためにさらにはげしい「闘争」がおこなわれ(「全面戦争」)、こんどは全リビドーを遮断して自己に集中させ、「世界は没落し、じぶんひとりだけが生き残っている」(それゆえじぶんはそのじぶんを愛している)というかたちでの「合理化」がなされて抑圧が勝利する。

 上でいわれている「否定的な特徴」とは、フレクシッヒにたいするポジティブな感情がネガティブな感情に反転したことをさしていよう。この反転による「合理化」につづけて、さらにリビドーを完全に撤退するというかたちでの「合理化」が起こるわけだ。

 ちなみに早発性痴呆とはちがい、パラノイアにおいてはリビドー撤収と同時に関心も外界から撤収してしまうことはない(早発性痴呆は幻覚性であり、投影をこととしない)。

「『乱暴な』分析について」「精神現象の二原則に関する定式」


*「『乱暴な』分析について」(1910年)
 1910年に設立された国際精神分析協会が精神分析の実践を「一手販売する」ことの宣言。「乱暴な」分析が患者にとって有害なだけでなく、精神分析そのものの評判を傷つけるからだとされる。高度に政治的な文書。


*「精神現象の二原則に関する定式」(1911年)
 論文の位置づけについてはストレイチーが的確に指摘している。きたるべきメタ心理学の構想にむけて、「心理学草稿」および『夢解釈』第七章における所論をひっぱりだして「自己点検」している「棚卸しのような印象をあたえる」テクストである。快感原則と現実原則、快感自我と現実自我、自我欲動といった術語は初出のはずである。論文(もともとは講演)の記述はきわめて高密度で圧縮されている。以下、ランダムな引用。

「快原則にしたがって生きる体制が、現実の刺激から逃れることができる整備を必要とするようになったとき、大事なことは、いま問題にしている図式の訂正ではなくてその拡大である。この整備は『抑圧』の相関概念にすぎないのであって、内心の不快な刺激を外部からのものであるかのように扱い、したがってそれを外界につけくわえる」

「現実原則が介入してくると、それまで現実検討に拘束されずにもっぱら快原則に支配されていたあるしゅの思考活動は、別扱いされるようになった。それは空想である」

「この二つの契機——自己愛と潜伏期——が影響した結果として、性欲動はその心理的な成熟という点でおくれ、ずっとながく快原則の支配下にとどまり、たいていの人の場合、性欲動はこの原則の支配を避けることができない」

「快感自我がひとえに快をもとめてはたらき不快を避けることを願う以外のことをしないのと同様に、現実自我はただ有用なものをもとめて努力し、傷害にたいしてじぶんをまもることしかしない。じっさいには、現実原則による快原則の置き換え(Ersetzung)といっても、快原則の廃止(Absetzung)をいみするのではなく、むしろその確保(Sicherung)をいみする」

 宗教、科学、教育、芸術の機能について——現世的な快の断念が来世において報いを受けるという「宗教的神話」は快原則と現実原則との交替という「心理的な転回を神秘的に投射したものにほかならない」。宗教が失敗した快原則の克服は、科学がなし遂げるだろう。「しかし科学もまた労働の知的な快をあたえ、終局の(有限な endlich)実際的な利益を約束するだけのものである」。
 教育は、愛という報酬を餌に快原則を克服させる手だてである。芸術は、「空想をあたらしいしゅるいの現実としてかたちづくり、それがまたひとびとから価値のある現実のコピー(Abbild)として公認される(zur Geltung zugelassen werden)」プロセスである。それが可能なのは、芸術の鑑賞者もまた快原則を克服しかねているからであり、鑑賞者にとっては「現実原則が快原則を代行したときいらいの不満自体が現実の一部だからである」。

 論文の末尾では、じぶんが死んでいることを知らない亡父の夢というエピソードが紹介されている(これについてはラカンがコメントしている)。
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