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「精神分析的観点から見た心因性視覚障害」

*「精神分析的観点から見た心因性視覚障害」(1910年)

 催眠はヒステリー性の視覚障害を暗示(見えないという「表象」)に帰すが、「見るという行為のなかにある無意識的過程と意識的過程が解離(Dissoziation)した結果である。見えないという患者の表象は、その心的事態の表現そのものであって、その原因ではない」。

 「精神分析では心的生活を力動的に理解する。つまり、心的生活を相互に促進したり、制止したりする力の抗争に帰する」。

 抑圧は論理学における「判断棄却」に相当するとの一節(「否定」論文が想起される)。

 心因性視覚障害にあっては、見ることと結びついたある表象が、「他のより強い表象」すなわち「自我」との対立におちいったために抑圧される。ところで「表象の対立は、[表象を賦活する]欲動間の抗争の表現にほかならない」。この場合は、性欲動と自我欲動(初出)との抗争である。

 部分欲動という観念に基づくかぎり、同一の器官(ここでは目)は性欲動と自我欲動のいずれにも仕えている(「目は対象の特徴、すなわち『魅力』をも知覚」)。そして「このように二重の機能をもった器官が、一つの欲動と緊密に結びつけばつくほど、他の欲動を拒む結果になる」。性的窃視欲(die sexuelle Shaulust)が大きくなると自我欲動の「抵抗」を呼び起こし、この欲求(Streben 尽力)が表れている表象が抑圧される。その結果、「自我は器官にたいする支配を失い、その器官はいまや抑圧された性的欲動の意のままになる」。視覚障害は抑圧された性欲動の「復讐」(Rache)であり、「代償」である。自慰を断念した人の指が楽器を弾けなくなるのも同じメカニズムによる。

 視覚障害は自我欲動が課す罰(「報復」Talion。「おまえは目を、邪悪な感覚的快楽のために悪用したのだから、何も見えなくなったとしても、それはとうぜんのことだ」)というより、むしろ抑圧された性欲動の側からの「復讐」なのだということであろう。フロイトはここでゴディヴァ夫人の伝説に言及し、「神経症学(Neurotik)」が神話学にたいする「鍵」ともなりうるというコメントをさしはさんでいる。

 最後から二番目の段落の冒頭でフロイトは、精神分析は性を病因と考え、性が心的因子だけにかかわるものでない以上、精神分析があらゆる疾病過程を心因に帰そうとするとする非難はあたらないと弁明している。「心的なものが身体的なものにもとづいていることを精神分析はけっして忘れない」。ストレイチーは、この言明が「特筆に値する」としている。

 これにつづくくだりはすこしわかりにくい。視覚機能において性欲動が優勢になった場合、「興奮性と神経支配の変化」がもたらされ、自我欲動に仕える機能(生命維持)の障害として現れる。視覚器官が性欲動に支配されて、「性器さながらにふるまう」とき、そこに「中毒性の変化」が起こっているとも想定できる。この「中毒性の変化」なるものは、自我欲動の側で「生理的」な障害(視覚障害)として現れているものの別の表現なのか、もしくはそれと並行しておこっている別のプロセスなのか? あるいは、「生理的」障害と「中毒性」変化は、心因と器質因という区別と重なるのか、あるいは重ならないのか? いずれにしても、じっさいにはこの二つの現象が同時に生じているが、「神経症的」障害という「古くて不適切な名称」によってひとくくりにされているとフロイトはのべる。

 これにつづく一文では、「神経症性視覚障害」の「心因性視覚障害」にたいする関係が現実神経症の精神神経症にたいする関係と同じとされている。精神神経症と現実神経症の相違は、病因が幼児期の葛藤に由来するか、現在の性生活の障害に由来するかという点にある。それゆえ、視覚障害についていわれる「神経症性」には器質的な要因もふくまれているということだ。「心因性視覚障害」は「神経症性視覚障害」なしに生じることはないが、後者の解明は遅れているとされる。病因における性の役割をフロイトは強調したいのだ。

 最後の段落では、視覚障害が抑圧だけで説明できるのか、それとも「特別の体質的状態」という前提が器官を性欲動の支配下に置くことを促すのだろうかという問いが立てられ、ドラ症例で導入された「身体側からの対応」という概念が想起されている。ヒステリー症状は必ず器質的な要因に口実を見出し、それに身をやつして現れるということだ。

 この論文についてフロイトは「たんなるその場凌ぎの(pièce d’occasion)論文であり、何の価値もない」とフェレンツィに宛てて書いている。
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「男性にみられる対象選択のある特殊な型について」

*「『愛情生活の心理学』への諸寄与 第一章:男性にみられる対象選択のある特殊な型について」(1910年)
 
 人間が愛の対象をどのような条件のもとに選択するのかという問題は、これまでもっぱら詩人[作家]に委ねられてきた。しかし、詩人は「知的快」「美的快」という要請にしばられているために、じぶんの無意識という素材を加工せざるを得ない。それゆえフロイトは「科学」の立場からこの問題を吟味しようとする。

 あるしゅの男性は、(1)夫や婚約者のいる女性を愛の対象に選ぶ。(2)性的なモラルの低い女性を愛の対象に選ぶ。

 (1)はエディプス的状況の反復である(この論文は「エディプス・コンプレックス」という語の初出)。「あらゆる恋愛状態は強迫的性格をあるていどもってい」て、(1)はその極端な例である。

 「このしゅの情熱は、このタイプにぞくする人間の生涯で、同一の特徴をそなえて(mit den gleichen Eigentümlichkeiten)——一つが他の厳密な模写(Abbild)として——何度も反復的に起こってくる。じっさいのところ愛の対象は、……住居地の変化や環境の変化にともなって、何度も相互に代理しあって、そのために似たような女性の長い列ができるほどである」。

 このタイプの男性にとって、あらゆる愛の対象は、「遷延性の出産の後に小児の頭蓋が[鋳型となった]母親の骨盤狭部の形を映している(darstellen)」ように、母親の特徴にかたどられている。このタイプの男性が他の女性をつぎつぎに愛することは母親への愛への忠実さと矛盾しない。

 「無意識のなかに存在する唯一にして他による代理を許さないものは、それをやや代理しうるかにみえるものの際限のない系列というかたちをとってあらわれる。なぜ『際限がない』かというと、どんな代用品も所期の満足感をあたえることができないからである」。

 母親への性的愛着はその典型であるが、精神分析は他の事例においてもこのことを確認している。たとえば、ある年齢の子どもの質問癖は、「[性的なことがらを知らないので]どうしても口に出せないただ一つの質問」の代理であり、神経症者の多弁は、「どれほど誘惑に駆られようと証すわけにいかないひとつの秘密が伝えられることを迫る圧力」ゆえである。

 (2)は子どもが性的なことがらに目ざめたときの失望(「お母さんと娼婦との違いはそんなに大きなものではない。どちらも結局同じことをしているのだ」)に由来する。

 性的なことがらを知ることで、幼児期の母親への愛着が性的な意味を帯びて再賦活され、父親が競争相手として認識される。父親を愛の対象として選んだ母親の「不誠実」への「復讐心」が同時に芽生える。この感情は、母親の性行為を内容とする空想のなかに生き延び、自慰行為によって解消させられる。

 「感情と復讐心という、駆動力となっている二つの動機がたえず合わさって作用する結果、何より圧倒的に好まれる空想は、母の不実をめぐる空想である。不実を犯した母と通じていた姦夫は、たいていの場合、自分[子ども]自身の自我の風貌[die Züge 特徴]をそなえている。より正確に言うなら、理想化された自分自身、成熟して父の水準にまで高められた人格の風貌をそなえている」。

 (2)のタイプの男性は、性的モラルの低い女性をじぶんが「救う」と信じている。このような「救助空想」は、「両親コンプレックスに由来する独立した子孫[Abkömmling]」である。つまり両親への「貸借関係の精算」であり、「生命を贈ってくれた」母親にたいしては母親に「それと同じ価値のあるもの」で恩返ししたい(自分の子どもを授けてやる)という「願望」、父親にたいしては競争相手に借りを返したい(殺意を正当化したい)という「反抗心」の表現である(王や皇帝を救出するという物語はこのコンプレックスの「歪曲」である)。救助空想における父親との同一化の欲望において、愛情、感謝、欲情、反抗、自尊心といったすべての欲動がみたされる。

 「窮地からの救出」とはまた、出産の際に自分自身が母親の助けによって通過した経験の反映である。「出産はわれわれの人生のさいしょの危険であり、またそれ以後の、われわれを不安におとしいれる一切の危険の原型である。そして、どうやら誕生の体験が、不安とよばれる情緒表現をわれわれに残していったのだ」。

 また、水からの救出という空想は救い手が男性か女性かでいみあいがことなる。男性が女性を水から救う場合は救い手がその女性をじぶんの母親にするといういみであり、女性が誰か(子ども)を水から救う場合は救い手がその子を産むことをいみしている(モーゼ伝説)。ついでに父親を救出する空想は、父親をじぶんの息子としたい、父親のような子どもがもちたいという願望をいみするとも言われているが、先ほどの「反抗心」からの貸借関係の精算とは別の文脈がもちだされていてわかりにくい。

 これにつづく第二章「愛情生活が誰からも貶められることについて」は1912年、第三章「処女性のタブー」は1917年に発表されている。

「精神分析療法の今後の可能性」「原始語の逆のいみについて」

*「精神分析療法の今後の可能性」(1910年)

 前半は技法論。実現しなかった『精神分析一般方法論』の構想への言及あり。象徴の体系については「象徴の総合研究委員会」なるものが調査中とのこと。分析の目標は、症状の意味の解明からコンプレックスの発見へと移行してきた。分析においては「抵抗の発見と克服」が目指される。逆転移は必然。分析家は自己分析からはじめるべし。個々の神経症には別々のアプローチが必要。恐怖症はより深刻ならざる不安へと誘導すべし。強迫神経症については能動的、受動的の見極めが手がかりになる。
 後半は社会の神経症が問題にされる。文明はすべての個人に対して本能を抑圧するための莫大な消費を要求する。このエネルギーの消費による自己の貧困化が神経症をひきおこす。神経症の原因の大半は社会そのものに由来している。個々の患者にたいする治療法は集団にたいしても有効である。
 「理想的な予防法」としての神経症。「神経症は葛藤の多い社会状況のなかでわれわれにあたえられている可能性のなかのもっとも穏やかな逃げ道である」。これは人間にそなわる「生物学的」な機能に帰されている(「神経症は患者を葛藤から保護し、その社会生活を保証する特殊な生物学的機能をそなえている」)。とはいえ神経症の疾病利得は全体としてみると個人にとっても社会にとってもマイナスである。個人にとっては疾病利得があり得ても、社会にとってはそうではない。最後に、社会的権威による大衆の啓蒙は有益であるとのべられている。


*「原始語のもつ逆のいみについて」(1910年)

 sacer(神聖な/呪われた)のように、古代エジプト語においてひとつの単語が対義語をも同時にいみすることがある。
 「<つよさ>という概念を手に入れるためには、<よわさ>との比較がぜったいにひつようであったから、<つよい>といういみの単語も、<よわい>という概念を想起することによってはじめてうまれたものであって、もともとこの後者をも同時にふくんでいたのだ」。
 この機制は「魂のもっとも深部にひそんでいる契機」のなかにその原因をもとめうる。夢がその証拠である。「夢のなかでの思考表現は退行的・原初的性格をおびている」がゆえに、夢と原始語は似ている。ぎゃくにいえば、言語史の知識は夢の言語の解明に寄与しうる。

「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」

*「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」(1910年)

 一篇の「精神分析的小説」。中心的な主題は昇華、自己愛(および同性愛)。

 幼児の[性的]「探究欲動」の3つの「運命」。(1)神経症。性欲と同時に探究心も抑圧される。(2)思考抑制。探究心が性欲化し、性欲に吸収される。キノドスによればこれは強迫神経症のケースである。(3)昇華。探究心は性欲と分離し、抑圧を免れる。レオナルドのケースはとりあえずこれに分類される。

 レオナルドにおける昇華は二段階に分かれる。まず、幼児期の性欲の探究心への昇華(「本源的昇華」)。ついで思春期における芸術的創造への昇華(「第二次昇華」)。レオナルドにおいてはもともと前者が後者に奉仕しているが、そのうち勢いを盛り返し、前者を阻害するにいたる。この段階での「抑制」は強迫神経症の「無為」にひとしい(1498年の「最後の晩餐」にみられる「考慮」と「躊躇」)。レオナルドの学問的探究心は「無意識的諸欲動の活動を特徴づける諸徴候」(飽くことのなさ、頑固、現実への順応能力の欠如)を示す。レオナルドの発明はわるふざけにみちていたが、そこには「機知」が欠けていた、といういみふかい一節もよめる。またレオナルドの強迫神経症は、家計簿の記載のしかたにもみてとれる(「抑圧された感情がつまらぬばかげた行為の上に転位されている」)。

 ところが50歳代初頭にモナリザの微笑みに出会い、「心的内容のいっそう深い層」が再賦活され、ふたたび芸術的創造性が活発になる(1503〜07年の「モナリザ」、1510年の「聖アンナ」)。「心的内容のいっそう深い層」とは母親への愛である。父親が不在のまま育ったレオナルドは、「母親の情愛に満ちた誘惑(der zärtlichen Verführung)」に委ねられ、「母親の熱烈な接吻のために性的早熟へと駆り立てられた(zur sexuellen Frühreife emporgeküßt)」。母親への強い愛情は、母親に同一化し、同性愛者となることで抑圧された。その後、性欲は探究心に吸収され、レオナルドは「愛するかわりに探究した」。モナリザとの出会いによってこの抑圧が解除され、母親への愛情は創造性へと昇華された。それゆえ、レオナルドの「探究欲動」は、じっさいには(2)を経て(3)にいたる「運命」をたどったとフロイトはかんがえているようだ。

 だとすれば、『手記』中にみられるくだんの幼年期の「記憶」は、モナリザとの邂逅以後に形成された空想であるということになるのだろう。

 男根をそなえた「禿鷹」は、ペニスをもつ母親という幼児の性理論に合致する理想的イメージの再生である。オスが存在せず、単性生殖をおこなう「禿鷹」にレオナルドが父のいないじぶんを重ねることには必然性があり、また[ムト]神とはそもそも「性器の本質の昇華」にほかならない。

 レオナルドの家庭環境はフロイトのそれと似てふくざつだった(年の離れた父親夫婦etc.)。父親への同一化は、父がじぶんをネグレクトしたごとくじぶんの作品をかえりみなかったこと、および華美な服装への趣味(実母にとって父は「身分の高い旦那さま」だった)にあらわれている。レオナルドがキリスト教への信仰をもたなかったのは、人格神というものが幼児期における父親の観念の昇華(「退行的更新」)であるからで、一方レオナルドがもっぱらの探究の対象とした自然には母親のイメージが重ね合わされている。

 「飛行」の観念において、レオナルドの探究心の性的な源泉はあきらかだ。飛行の空想や飛行の夢は、「それを知ることも行うこともゆるされていないあるすばらしいことを、ある謎にみちた、きわめて重大な領域でおこなうこと」ができるようになりたいという幼児願望の表現だ。人類は現代にいたってやっとその願望を実現したのである。

 ところで本論文においては系統発生的なヴィジョンが明確に提示されている。「個々人の心的発展は人類発展の道程を短縮して繰り返す」。あるいは幼年期の記憶と民族の古代史とのアナロジー。
 
 エンディングは創造と偶然の関係をめぐる省察。いっさいは偶然であるが、そこには「自然の理性 ragioni」がはたらいている。自然は「けっして経験されることのなかったような無数の原因に満ち」ており(この認識はレオナルドをもうひとりの強迫神経症者ハムレットにおくりかえす)、「人間は自然のそのような理性が経験されることをもとめておしよせる無数の実験のひとつである」。

 ナルシシズムの一形態である「自己愛的同一化」の観念をフロイトはこのあと発展させていない。それはクラインの投影同一化の観念において後継者をみいだす(キノドス)。


 そのほかのきょうみふかい点。
 
・建築学的隠喩。抑圧と昇華は「心的建築物」の性格的「基盤」。

・女性における男根の不在とモナリザの微笑みがいずれも「無気味な」と形容されている。

・ユダヤ人差別(割礼)と女性蔑視との同根性の指摘。ただしこれは1919年に追加された注。

・レオナルドはファウスト的というよりスピノザ的である。

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