スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

詩人と空想すること


「詩人と空想すること」(1908年)


 『グラディーヴァ』論、「舞台上の精神病質的人物」における問題意識を受けての文学論。

 以下、レジュメ


 『機知――その無意識との関係』を引き継ぐかたちで、冒頭において「詩作=遊び(Spiel)」というテーゼが掲げられる。

 「遊んでいる子供というものはみな、一つの独自の世界を創り出すことによって、あるいはもっと正確にいうなら、自分の世界の事物を、自分の気に入った、ある新しい秩序の中へ置き入れることによって詩人と同じようにふるまっている」。

 そして例の有名な一節がつづく。「子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。……遊びの反対物は真剣ではない。――現実である」。

 「子供は……想像上の対象や状況を現実世界の[……]事物に仮託」し、この仮託が子供の遊びと大人の空想を区別する。

 現実の出来事であれば不快をもたらすことであっても楽しみをもたらす点も、遊び(空想)と文学作品との共通点。

 『機知――その無意識との関係』における機知の「発達図式」に則り、遊びがやがてユーモア(子供の自分を微笑ましく眺め下ろす態度)にとって代わられることが示される。

 ところで、「われわれはなにも断念することなどできはしない。ただあるものを他のものととりかえるにすぎない。断念とみえるものも、実のところは元のものの代用あるいは補償構成物なのである。そこでまた青年も、たとえ遊戯はやめても、かれがやめたのはただ現実の対象への仮託ということだけにすぎない。すなわち遊ぶかわりにかれはいまや空想する」。

 遊びと空想の違いは、子供が遊ぶところを他人の目から隠そうとはしないのに対し、成人は空想を隠す。それは両者の動機の違いによる。

 子供の遊びは大人になりたいという願望に発するが、大人は現実世界のなかで行動することを世間に期待されているので空想に罪悪感をいだく。

 とはいえ、逆に空想を隠さない大人もいる。詩人?とおもいきや神経症者のことであった。精神分析家には何も隠すことができないからとのこと。

 さて、「幸福な人間はけっして空想しない」。空想はすべからく願望充足である。その願望は名誉心的願望か性的願望であるが、後者は前者に帰着する。祭壇画の隅に寄進者の顔がさりげなく描き込まれているように、名誉心的願望の影には愛する女性の面影が垣間みられることがまれではない。

 空想は三つの「時間の刻印」によってダイナミックに形成される。(1)願望を喚起した「現在」の印象が、(2)幼年時代=「過去」の記憶に結びつき、(3)古い願望が「将来」的に充足される状況を空想として描き出す。

 身寄りのない青年が就職の面接に向かいつつ空想をめぐらせるとき(就職し、上司に気に入られ、その美しい令嬢と結婚する……)、かれはかつて幸福な幼年時代に享受していたもの(家、両親の愛、最初の性的対象……)の「代用品」を創り出している。ことほどさように「願望は……過去の手本にしたがって未来像を描き出すために現在のきっかけを利用する」。空想を「白日夢」とも言うのは偶然ではなく、じっさい、夢は空想の一つである。

 本論文の後半は詩人についての考察。

 文学的創造においては、ある体験の印象が詩人の心に幼年時代の願望に結びついた記憶を呼び覚まし、その願望が作品において成就される。

 作家には二つのタイプがいる。既存の素材の料理に腕を振るうタイプ(叙事詩人、悲劇詩人)と、素材そのものを自由に創り出すタイプ(ある種の小説家)とである。

 後者においては、物語の絶対的な中心を占める主人公を戴く「自己中心的な物語」に白日夢との共通性がみられる(主人公が死ねば小説も完結してしまうから主人公は不死を約束されているというご都合主義)。近代心理小説の複数の登場人物も作家の自我の枝分かれしたものにすぎず、後期ゾラなどの「脱-自我的」な小説も、やはり白日夢の「変形」にすぎない。

 一方、前者における既成の素材とは、民族的な遺産(神話、伝説、童話)を指す。神話は「諸国民全体の願望空想の歪曲された残滓、若い人類の現世的な夢」を物語っている……。この系統発生的なヴィジョンはここでは暗示されるだけにとどまっている。

 一般の成人が空想を暴露しても不快をあたえるがオチだが、詩人の場合は大きな快感を呼び起こす。なぜか? 

 詩人は「修正」と「隠蔽」によって白日夢の利己的な性格を和らげると同時に(「個々の独立した自我と自我とのあいだにある柵と関係しているあの嫌悪感を除去する技術」)、形式的美があたえる「美的快感」が「誘い水」(「予備的快感」)となって、読者の内的な緊張を解きほぐし、無意識をおびき出すのをたすける。それゆえに、一般の成人の空想が呼び起こす不快や無関心を免れている。これは「詩人のもっとも深遠な秘密」に属することがらであるが、そのおかげで読者は恥じることなく己の空想に自らを委ねることができるようになるのである。


 「誘い水」「予備的快感」は『機知——その無意識との関係』および「舞台上の精神病質的人物」でもつかわれていた概念。

 文学作品が作家の幼年時代の願望を作品化していることは、「グラディーヴァ」論においても明確に述べられていない。文学作品が読者を作家の空想の世界にあそばせることで自我と自我とを隔てる垣根から解放するといういわば系統発生的な観点もここではじめて提示されている。


 訳文は『フロイト著作集』および『フロイト全集』に拠る。
スポンサーサイト

「強迫行為と宗教的礼拝」

*「強迫行為と宗教的礼拝」(1907年)


 強迫神経症者にとって、強迫行為は「聖なる行為」である。「『儀式』を『強迫行為』と分かつはっきりした境目などもとより望むべくもないだろう」。

 両者の相違は、以下の点に求められる。

 ・一様性(祈祷、座禅)←→個人的多様性
 ・公共的性格←→私的性格
 ・意味深さ、象徴性←→無意味

 とはいえ、強迫行為はそのすべての細部に至るまで意味にみちており(5つの事例)、強迫神経症が「私的宗教のなかば喜劇的でなかば悲劇的な戯画」にみえるのは外見上のことにすぎない。

 また、強迫行為は無意識的である点で宗教と違うように思われるが、宗教行為の動機も信者自身に知られていないか、名ばかりの動機にとって代わられている。強迫神経症者の「無意識的罪責意識」(撞着語法?)は、信者の「自分は悪しき罪人」という罪責感に対応している。強迫神経症者も当初は強迫行為の目的を意識しているが(かくかくのことをしなければこれこれの災いが起こる)、やがて儀式的に行うだけになる。

 宗教も強迫神経症もその根底に「禁圧」あるいは「ある種の欲動興奮の放棄」を共有している。

 強迫神経症の心的過程は、夢におけると同様、「移動」というメカニズムに支配されている。つまり本来の重要なものから代替的な些細なものへの「移動」であり、「ついには外見上枝葉のことがもっとも重要かつ緊急のものとされるにいたる」。このことは宗教においても起こり、宗教的儀礼の煩瑣な手続きがその儀礼本来の思想内容を押しのけてしまう。そのため宗教は断続的な「改革」によってこれを本来のあり方に戻そうとしてきた。

 というわけで、「強迫神経症をあえて宗教形成の病理上の対応物としてとらえ、神経症を個人の宗教、宗教を普遍的な強迫神経症と呼ぶことも許されるかもしれない」。
 
 「活動させれば自我に原始的な快楽をあたえられるであろう体質的諸欲動の漸進的な放棄が、人間の文化発展の基盤の一つであるように思われる」。かくして宗教は、抑圧すべき欲動が捧げられるべき対象として神を創造した。人間が放棄した「罪悪」は神の名によってのみ許されるものとなり(「復讐するはわれにあり」)、「神への委託は人間が邪悪な反社会的欲動の支配から解放される道」となる。また、それゆえに古代の神々には悪業をも含めた人間的性質が投影されていたのであり、罪悪は神のものであるからこそ人間が犯すことはタブーとされていたのだ。


 みられるとおり、のちの『トーテムとタブー』「鼠男」『文化における居心地わるさ』に繋がる問題意識が提出されている。神経症者の無意識的罪悪感については、「事実状況診断と精神分析」でも触れられていた。

 「グラディーヴァ」論における古代=幼年時代に繋がるフロイト一流の大いなるアナロジーの才覚が全開にされた論文だ。なお、この論文が発表されたウィーン精神分析協会の会合には、ユングがはじめて顔を見せていた。

「事実状況診断と精神分析」

*「事実状況診断と精神分析」(1906年)

 
 精神分析と司法との接点を実践的に考察した興味深い論考。

 「事実状況診断」とは容疑者にある言葉を提示し、思いついた言葉を瞬時に答えさせることで、犯人にしか知りえない事実を容疑者がぽろっと漏らすことを狙った操作方法で、ヴント心理学に発するものであるらしい。

 フロイトは、この方法に精神分析における自由連想に通じるものを見出しつつも、言葉のすばやい応酬によって自由連想の流れがたえず遮られること、試験官が被試験者の反応を重要なものとそうでないものとに恣意的に振り分けてしまうことにおいて限界があると進言している。ユングもこの問題を扱った論文において、「心の出来事の偶然性や表向きの任意性」を疑う見解をすでに提示している。たとえば、反応の際のためらいや中断は「抵抗」の現れであり、「『コンプレックス』に組み込まれている」。

 二つの方法の対比にあたって、フロイトは犯罪者とヒステリー患者の共通点を指摘している。いずれにおいても秘密のもの、隠されたものが問題になっている。もちろん、フロイトもこのアナロジーが高度にミスリーディングなものであることがわかっている。犯罪者の場合、その秘密を本人が知っているが、ヒステリー患者においては患者本人にも知られていないという相違点があるとすぐさまフォローする。

 ただし、精神分析家と捜査官とのアナロジーは堅持される。「治療者の仕事は予審判事の仕事と同じです。私たちは隠された心的なもの[この論文でそれは「コンプレックス」と呼ばれている]を発見しなければならず、この目的のために一連の探偵技術を考案しました」。

 犯罪者とヒステリー患者の第二の相違点として、ヒステリー患者が治癒という利害ゆえに治療に協力するのに対し、犯罪者は捜査に協力しないことが挙げられる。犯罪の捜査においては捜査官が「客観的な確信」を得ることが問題だが、治療においては患者自身が確信を得ることが必要である。ヒステリー患者が隠しているものは性的である点で均一であり、治療者が出会うのは意識と無意識の境界における局在化された抵抗であるが、捜査官が出会うのは犯罪者による意識的な「抵抗」であり、それだけにとりつくしまがないほど多様である。犯罪者は「抵抗」から不快ではなく快を引き出していることもある。

 神経症者に対しては、「事実状況診断」は限界がある。神経症者は罪を犯していなくても罪があるかのように反応するので、捜査官が欺かれる可能性があるのだ。「患者のなかで準備されて待ち構えている罪の意識が、個別の事件の告発を横取りしてしまう」。それゆえ犯していない罪を被ることで、より大きな罪悪感から逃れようとする。

 さらに「事実状況診断」は刑事訴訟法の定める守秘義務に抵触するおそれがある。とはいえ、それはこの方法を放棄すべきであるということを意味しない。診断の結果が判決を左右することがないという保証をあたえたうえで模索をつづけることで、いつの日かこの方法の有効性がおのずから証明されることであろう。

 新たな同志ユング(およびアドラー)への言及は刊行されたものとしてははじめてということになるらしい。

  

「舞台上の精神病質的人物」

*「舞台上の精神病質的人物」(1905〜1906年)

 ラクー=ラバルトによれば、演劇についてフロイトの書いた「もっとも重要なテクストのひとつ」。以下、レジュメ。

 アリストテレスは演劇の目的を浄化(カタルシス)に見出した。フロイトはこれを「われわれの情動生活のなかから快ないし悦びの泉を打ち開くこと」という意図に一般化しようとする。滑稽および機知がまさに同じ意図をもっている。滑稽および機知は、「われわれの知的作業のなかから、ふつうならそこに現れたためしがないような数々の快の泉を打ち開く」。「荒れ狂う」「情動」や知的な「作業(=労働)」から、それとは相容れないはずの「快」や「悦び」を引き出すのが演劇であり、機知であるとされているわけだ。

 演劇における快は、荒れ狂う情動が「放散」して鎮まる際の精神的な軽減の効果、および「それにともなう性的な共興奮」に由来する。情動なるものはつねに性的な興奮をともなう。

 演劇(Schau-spiel)のもたらす快は、子供の遊び(Spiel)のもたらすそれにひとしい。子供が遊びのなかで大人の能力に伍すという望みを叶えるのとおなじく、演劇の観客は、なにものでもない自分が「主人公=英雄」になりたいという望みを叶える。
 
 演劇の観客は、主人公と「同一化」する。とはいえ、主人公が生身をさらす危害を免れるという条件つきで。身の安全が保証されているぶん、「苦しみの緩和」がもたらされる(「ただの遊び」であり、主人公は「他人」であるから)。このような安全な状況のなかで、観客は「抑え込まれた心の蠢き」に身を委せ、「偉大な人物」として、日常ではあじわえない「悦び」を享受する。

 このような状況は、演劇においては、叙情詩や叙事詩以上に徹底され、「不幸の予感さえも悦びに変える」。敗北する主人公への「同一化」は、「マゾヒスティックな満足」をもたらす。こうした「苦しみや不幸との関係」こそ劇なるもの(Drama)の特質である。「ありとあらゆる種類の苦しみが劇のテーマになる」。悲劇のみならず、ハッピーエンドで終わる劇にあってさえ、そこにいたるまでにさんざん掻き立てられる不安に対するマゾヒスティックな満足がともなう。劇が神々への供犠を起源にもつのは偶然ではない。「劇とは[人間に]苦しみを課してきた神の世界秩序に対して胎動しつつある反抗を鎮めるもの」であり、「神的なものに対する謀反人」たる英雄の苦悩から、「マゾヒスティックな満足と、弱いながらもなお偉大なものとして強調された人格に対する直接的な悦びを通して」快が引き出される。

 Mitleiden(同情=苦しみを共にすること)がそれに伴う満足によって相殺されるためには、この苦しみが身体的な苦しみではなく心の苦しみであることが必要である。劇の「筋立て」は、この苦しみの由来を説明し、苦しみを必然化するための道具立てである。筋立てはすぐれて「葛藤」(意志の努力とそれへの抵抗)をその内容とする。この葛藤は、さいしょは神的なものへの反抗というかたちをとったが(宗教劇)、神への信仰が薄らぐとともに人間的な秩序への闘いとなり、ついで個人対社会共同体の闘い(市民劇、社会劇)および人間対人間の闘い(性格悲劇)となる。この過程で謀反という「悦びの源泉」は失われるが、イプセンの社会劇ではこれが最大限に利用されている。

 この流れは、主人公自身の内的な葛藤を描く心理劇、そして意識的な二つの「心の蠢き」の葛藤にとどまらず、意識的なものと抑圧されたものとの葛藤を描く「精神病理学的な劇」へとさらに可能性を拡張させていく。

 「精神病理学的な劇」の条件は、(1)主人公の精神病質が筋立てによって必然化されること(それゆえもともと精神病質であってはならいない)、(2)描かれる葛藤が「われわれ誰もがひとしく抑圧している心の蠢き」すなわちエディプス・コンプレックスであること、(3)この葛藤が「たしかに識別できるものであるとしても、はっきりそれと名指されることがない」ように「秘匿」されていることである。そもそもエディプス・コンプレックスは無意識的なものであり、観客自身も事態を掌握しえぬままに感情の奔流に巻き込まれるという状況が抵抗を弱めることに貢献し、それだけ抑圧されたものの顕在化を促す。言い換えれば、観客の注意を逸らして抑圧されたものをうまく誘い出すことだ。

 「精神病理学的な劇」の嚆矢である『ハムレット』においてはこれら3つの条件が出揃っている。「精神病理学的な劇」においては、観客もまた神経症者である必要があり、作者の課題は、観客を「病者と同じ病気の状態に移し置く」であり、それに成功すれば、観客は主人公が病気であることを忘れて劇に没頭する。こうした「操作」の失敗例はバールの「もう一人の女」である。

 しめくくりの一節。「観客の神経症的不安定さと、抵抗を回避して予備的快楽を提供するという詩人[作者]の技、唯一これだけが、アブノーマルな登場人物を舞台で使えるかどうかの境界を定めることができるのではないか」。


 さいごのくだりに出てくる「予備的快楽」(Vorlust)とは、『機知——その無意識との関係』(および『性理論のための三篇』)におけるキーワードの一つである。「フロイトは、それだけでは快が生まれないような状況に付け加えられることによって、それ自体よりもはるかに大きな快が得られる場合、その付け加えられる快を「呼び水」[Verlockungsprämie]と説明し、大きな快の解放のために使われるこの快を「予快」[予備的快楽]と呼んでいる」(岩波『フロイト全集』訳注)。

 ラクー=ラバルトはフロイト没後の1942年にマックス・グラフの手によって公にされたこのテクストを「忘れられた」テクストと形容しているが、それは文字どおりこれを書いたフロイト自身によっておそらく無意識へと追いやられていたという意味あいにおいてである(La scène est primitive, in Le sujet de la philosophie)。

 ラクー=ラバルトによれば、フロイトの思想は「悲劇の思想(悲劇的思想」である。
 アリストテレスのカタルシス理論をなぞりつつ(「翻訳」しつつ)、フロイトは「同一化」という概念に訴えることで、いわばミメーシスの観念を全般化し、アリストテレスが前提していた舞台(=表象)と観客席との距離を廃棄して、舞台化されているものの意識による「是認」「再認」を不可能にしてしまう。フロイトが悲劇的快楽を「マゾヒズム」になぞらえるとき、そこでは苦痛が快そのものと化し、識別不可能になって、快の「代用品」(ニーチェ)であることをやめる。そこではいわば、ゲーテが述べたような「最高に悲愴なものでさえ美的遊戯でしかない」という古代人の(そしてワーグナーが甦らせた)経験が実現している(『悲劇の誕生』)。
 悲劇を遊戯になぞらえ、悲劇の本質に遊戯性を見出していることは、「舞台上の精神病質的人物」と『悲劇の誕生』に共通の身振りである。

「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる夢と妄想」


「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる夢と妄想」(1907年)


 『ヒステリー研究』『夢解釈』『日常生活の精神病理学にむけて』『性理論についての三篇』『機知——その無意識との関係』と、幅広い主題をつぎつぎに手がけてきたフロイトが、文学作品の長大な読解というこれまた新たな境地に挑んだ野心作。すでに何度も読んでいる本書だが、フロイトの著作を年代順に読む作業をつづけるなかで、この著作のそのような位置づけをあらためて認識できた。

 イェンゼンの『グラディーヴァ』は1903年に刊行された。『機知』がフリースの苦言(夢見る人は機知に富みすぎている)への回答として執筆されたとすれば、本書は出会ったばかりのユングとの対話を深めるために書かれていると言えるだろう(本書のヒントをあたえたのはユングではなく、シュテーケルとする説もあるが)。

 本書のさしあたっての眼目は虚構の人物に対する夢分析であり、そのかぎりで本書は『夢解釈』と連続的な著作である。また、主人公の病理の分析をとおして、『ヒステリー研究』から「ドラ」症例にかけて温められてきた神経症のメカニズムの考察が継承される。さらに、グラディーヴァ=ツォエを分析家になぞらえることで、治療理論を発展させている。そのほか、これはもっと強調されてしかるべきだとおもうが、この「女医」が両義的な言葉を治療に利用している点は、『機知——その無意識との関係』の問題意識を継承するものである。

 精神分析家と作家は心の生活という研究対象を共有し、この点では伝統的な科学の立場を凌駕する。フロイトは科学を向こうにまわし、文学者の側につくことで精神分析の科学性を基礎づけようとする。

 ハーノルトの第一の夢は不安夢であり、夢を引き起こした性的欲望が、みずからを偽装するために、グラディーヴァの死、ポンペイの滅亡という不安を催させる要素を召喚している。「移動」によって、「もとめる娘がある町に、自分と同時代に生きている」という真実が「歪曲」されている。「石像に変ずる」というモチーフも、欲望の優勢を示すものだ。夢見のあとでグラディーヴァ=ツォエに投げかける「もう一度横になってくれ」という言葉は、夢によって呼び起こされた性的欲望の「名残」である。現実の患者の臨床例と同じく、夢が妄想を発展する契機として機能している。「夢と妄想は同一の源泉、すなわち抑圧されたものから発している。夢は正常な人間の、いわば生理的な妄想である」。

 抑圧されたものの定義。「強烈であって活発な作用を示すにもかかわらず、しかもなお意識のはるか遠くにありつづけている心的事象」。「心的なあるものを近寄りがたいものにすると同時に、それをしっかりと保持している抑圧」。

 「太陽館」の主人に売りつけられたブローチをハーノルトが本物と思いこんだのは、真実が抑圧されているために、確信感情が他の要素(白いアスフォデロス)に「転移」したため、虚偽への確信が起こったのだ。「真実と虚偽との門閥関係」はこうして生まれる。「どんな妄想にも一片の真実が潜んでいる」。亡霊というモチーフについては、誤診で死なせた疑いのあるバセドウ氏病患者に瓜二つの妹が来訪したときのフロイト自身の恐怖体験が想起されている。

 分析家グラディーヴァ=ツォエの「治療」の主眼は、「彼[ハーノルト]自身の内部的な力では解放することができないままでいる抑圧された記憶を外部からふたたび甦らせる」ことであり、その手段として機知が活用される。当初はそのせいで途方に暮れさせられた言葉の両義性を利用して、かのじょはハーノルトを現実に引き戻す。患者にわざと両義的な言葉を語らせたり、分析家自身がそれを口にすることは、じっさいに使われている臨床的な技法である。

 グラディーヴァ=ツォエはとりわけ機知に富んだ人物として描かれる(「死人扱いされることにはもう長いあいだ馴れっこ」「あなたからいただくのでしたら、この黄泉の国の忘れ花がふさわしいのですわ」「誰だって生きた人間になるためには、まず死ななければならないってことでしょう」「二千年前に一度こんなふうにしてお食事をしたような気がするんですけど」)。かのじょの機転は、とりわけ、「動物学的表象圏」および「考古学的表象圏」と戯れることに発揮される(「埋没」「始祖鳥」)。幼年時代と人類の古代を混同するハーノルトは、いわば系統発生的な観念に囚われている。グラディーヴァ=ツォエは、この混同を見事に機知に還元する。もしかしたらここには、系統発生的な仮説にこだわりつづけたフロイト自身の機知が読み取れるかもしれない。

 グラディーヴァ=ツォエは、患者の履歴を辛抱強く聞く手間も、分析家の人格をとおして蘇生した愛(「愛による治療」)をふりむけるべき「代用品」を探す手間も不要だから、分析家としてこれ以上ない理想的な立場にある。
  
 本書の臨床面での価値については、キノドスがつぎのように述べている。「このテクストの中に私たちは、フロイトの並外れて発達した臨床観察の才能をも発見する。1907年には、彼はハーノルトに、現実の否認や自我の分裂のようないくつかの精神病理的現象を認めたが、それらが精神病と倒錯に特殊な機制であるとは理解していなかった。それから20年してようやくフロイトは、現実の否認や自我の分裂を精神病に特徴的な防衛機制として示し、以後それらを、彼の神経症に限定することになる抑圧と区別する」(『フロイトを読む』)。

 『グラディーヴァ』の「ハッピーエンド」には必然性がある。エンディングを単なる妄想の放棄(誤りから目を覚まさせてくれて感謝しますが、「自分は生身の現代女性にはまったく無関心だから悪しからず」)で終わらせず、妄想の解消と愛の蘇生を不可分なものとして提示したイェンゼンは正しい。

 心の生活に偶然は存在しない。作家は「自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中し、……その発展可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる」。いっしゅの自己分析をしているとも言えるが、イェンゼンのように方法性がさほど高くなく、想像力にまかせて書きなぐる(?)タイプの作家の方がこの点では研究のしがいがある。じっさい、『グラディーヴァ』に読みとれる精神分析的認識が企まれたものでないことをイェンゼン自身の口からユングがたしかめている。

 ハーノルトの「第一の夢」に読み取れる願望は、ポンペイ滅亡を目撃したかったという考古学者としての願望と、横たわる恋人の傍らにいたいという性的な願望であり、「第二の夢」のそれは、恋人に「捕獲」されたいというマゾ的願望である。とはいえ、これは夢によって喚起された妄想のさなかでグラディーヴァ=ツォエに向けられる攻撃欲動(蠅を払う体で身体を叩く)と矛盾する……。「しかしわれわれはここで論述を打ち切らねばならない。さもなくば、ハーノルトとグラディーヴァが作家の創作になる人物だということを、ほんとうに忘れかねないからである」。これが結びの言葉。なかなかウィッティーなしめくくりだ。そもそも、この著作全体がひとつの大いなる機知であると見なせるかもしれない。

 1912年の「第二版への補遺」によれば、グラディーヴァのレリーフにはもともと植物の女神たちと生殖の神が彫られていた。フロイトによる『グラディーヴァ』のレジュメも、ひしめきあうような植物学的・動物学的イコノロジーに彩られ、いっしゅ異様な感を呈している。


 訳文は『フロイト著作集』(人文書院)に拠る。
 

『機知——その無意識との関係』(その2)


 『機知——その無意識との関係』を「『ユダヤの歴史』についての書」と言い切るナンシーとラクー-ラバルトもまた、『トーテム』『集団心理学』『モーセ』へと繋がる本書の「政治的」射程を指摘している。

 「『機知』においてユダヤ人は精神の言葉[mot d’esprit]の製作者のモデルとされている。それはこの資格で、範例というしかたで、フロイトがそのとき「精神神経症」と呼んだ構成を示している。それは『機知』に必要なものであり、すなわち二重人格である[「冷やかし好きの者が冷やかされた欠点を共に持っている」]。それは自らを自分の矢の的としうるが、また、そのために迂回を必要とする。迂回こそが『機知』の形式そのものであるだろう。このモデルを『機知』が含んでいる有名なトリオの登場人物と関係づけることによって、三つのユダヤ人(二番目のものは矢の的であり、すなわち最も一般的な場合においては、女性の位置を占める)という形式の下に範例的トリオを得る。『機知』の構造的社会は、ユダヤの民族であるだろう」(藤井麻利訳「ユダヤの民は夢を見ない」)。

 ゲイが賛辞を寄せ、コフマンも参照しているエリオット・オーリッグ『ジグムンド・フロイトの機知——ユーモアとユダヤ的アイデンティティについての一研究』は、フロイトがユダヤ・ジョークを収集していた(後に焼却)時期が父ヤコプの死に発する自己分析の時期と重なるとの指摘から出発し、『機知』で俎上に上せられているユダヤ・ジョークを、『夢解釈』や書簡(フリース、マルタ宛)、ライクらの紹介しているユダヤ・ジョーク、ジョーンズらに拠る伝記的エピソード、オーストリアのユダヤ人のステータスについての歴史社会学的研究などにリンクさせて考察している。著者は機知の形式面は重視しておらず、もっぱら主題的な共通性(フロイトの経済状況、東欧のユダヤ人への両義的感情、乳母と母親コンプレックス、モーセ、オカルト……)によって諸エピソードとの関連を探っている。

 コフマンによれば、フロイトはユダヤ的な機知を無意識という人間一般に普遍的な機制に還元することで、ユダヤ的なアイデンティティを隠蔽している(ユダヤ的な特異性を示すものは「滑稽なもの」へと「格下げ」される)。これは女性(オットー・ヴァイニンガーによれば、ユダヤ人は男性であっても非ユダヤ人の女性以上に女性的である)が孕みもつ欠如(欠点)を「否認」するフェティシズム的な態度である(たとえば、「せむし」の機知。あるいは「鍋」の機知、「救世主」の機知における「穴」の否認)。

「神経症病因論における性の役割についての私見」ほか

○「ゲオルク・ビーデンカップ著『脳桿菌との闘い』についての論評」(1903)
 文体についてのコメント。進化論的な見解の評価。


○「ジョン・ビジェロウ著『睡眠の神秘』についての論評」(1904年)
 「睡眠中に心の生活がおかれた状態に関する科学的研究もまた、睡眠は精神的活動を最小限まで低下させているといったこれまでの思い込みを不適切として放棄することを迫っている」。


○「アルフレート・バウムガルテン著『神経衰弱――本性・治癒・予防』についての論評」(1904年)
 

○「レーオポルト・レーヴェンフェルト著『心的強迫現象』についての論評」(1904年)
 「われわれがとかく正常な意志活動は表象や表象複合を抑圧しうると見なすばかりで、感覚や感情をも停止しうるとは認めたがらないなかで、彼はたしかな正当性をもって、強迫的感覚や強迫的情動の存在をも認めている」。 「残念だと言わざるを得ないことは、神経症的な不安は身体、すなわち性的活動の発生源である変転されたリビードを体現する場としてある身体にこそ由来すると主張する評者が打ち立てた図式に、レーヴェンフェルトが今回もまた同意していないことである」として、レーヴェンフェルトによる批判に反論している。「評者は、不安神経症における症例の病因に関しては、すべてが性的障害に由来するとは言っていない。しかし障害の機制に関しては、それがつねに性にかかわっていると述べている」。著者がヒステリーを考慮していないことへの小言。

○追悼文「S・ハンマーシュラーク教授」(1904年)
 ギムナジウム時代のヘブライ語教師への熱い思い。

○「R・ヴィーヒマン著『神経衰弱患者のための生活規律』についての論評」(1905年)

○『神経症小論文集成 1893-1906年』初版へのまえがき(1906年) 
 この論文集の巻頭にはシャルコーの追悼文が置かれたが、それは「どういった点でわたしの仕事がこの師匠の仕事とは異なるのか」を強調するためであるという。

○「神経症病因論における性の役割についての私見」(1906年)
 誘惑理論(および神経症選択が誘惑に対する反応の仕方に依存するという見解)の放棄にいたるまでを回顧。
 
 「ヒステリーとは個人の性機能の独特な行動表現」「症状とは患者の性的活動の全体あるいは一部を表現している」。

 神経症の病因論においては「ただ一つの病因的作用だけではまったく十分とはいえない」。同じ性的要因にも、文化や教育に相関的な要因と、有機体そのものの障害とが相乗作用をおよぼす。後者の要因については、つぎのように述べられている。

 「精神分析によって明らかになった事実にしたがえば、こうした[精神神経症の]発病の本質は性的リビドーの形成と活用を決定する有機体の性的過程の障害にあるとしか言いえない。したがって、いわゆる現実神経症の場合には身体的な、精神神経症の場合にはなおそれ以外に、性的物質代謝の障害の精神的作用が働くことを考えねばならない。ある種のアルカロイドによる中毒現象や禁断現象、またはバセドー氏病やアジソン氏病と神経症との類似性は臨床的に直ちに想起できる。あとに挙げた二つの疾患がもはや『神経疾患』としては記載できなくなったように、まもなく真性の『神経症』もその名称にかかわらず、この分類部門から遠ざけられざるをえないだろう」。

『機知――その無意識との関係』

『機知――その無意識との関係』(1905年)

 ストレイチーが指摘しているごとく、版を重ねるごとにまめまめしく手を加えられ、肥え太っていった同時期の『夢解釈』『日常生活の精神病理学』『性理論のための三篇』にくらべ、本書はその後、生みの親によってほとんど省みられることのなかったいわば孤児的な著作である。

 とはいえ、ラカンが述べているように「『機知——その無意識との関係』は、フロイトのもっとも議論の余地なき (incontestable)著作でありつづけている。なぜならもっとも透明な著作だからであり、そこでは無意識の効果の細やかさがそのすみずみにいたるまで描き出されているからである」(「精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野」)。

 あるいはサラ・コフマンによれば、諸家によってその諸側面が「ばらばらな肢体」としてしか定義されてこなかった機知が、実のところ本質的に統一不可能なものであり、アイデンティティという観念そのものを脅かすものであることを暴いたこの著作を「フロイトは後に、……単なる脱線であったと考えるようになる。だが、実は、『機知』はそれが提起した諸問題とともに根本的作品である。それは、ほぼ二〇年の後に回帰する。『集団心理学と自我の分析』に、『ユーモア』に、『人間モーセと一神教』に」(『人はなぜ笑うのか?』)。


 作品成立の背景には、フロイトの夢分析に対し、フリースが「機知に富みすぎている」と書き送った一件がある。



A 分析的部門

Ⅰ. 序論

 諸家による機知の定義が列挙されたあと、「しかし、それらは個々ばらばらであって、われわれはそれらを一つの有機的な全体にまとめたものがほしいのである」という本書のねらいが明らかにされる。


Ⅱ. 機知の方法

 夢と同じく、機知は「圧縮」と「転位」(または「代用」)という技法を用いる。「言葉の機知」は前者、「思想の機知」は後者に基づく。

 「圧縮」には「造語形成」によるもの(familionär)と「わずかな修正」によるもの(tête-à-bête)とがある。

 「言葉の機知」は本来の圧縮のほかに「同一素材の利用」「二重語義」を用いる。

 このうち、「同一素材の利用」には以下の下位区分がある。

 (a)全体と部分(Rousseau / roux et sot)
 (b)順序の変更( viel verdient … zurückgelegt / zurückgelegt… viel verdient)
 (c)わずかな修正(Antisemitismus/Antésemitismus, Traducttore/Traditore)
 (d)同一語の十全な意味と空疎な意味(Wie geht’s? —— Wie Sie sehen.)

 また、「二重語義」には以下の下位区分がある。

 (e)名前と事象の意味(Banko)
 (f)比喩的意味と事象的意味(Spiegel)
 (g)本来の二重語義(言語遊戯。「駄洒落」はこの亜種)
 (h)曖昧性、両義性(le premier vol de l’aigle, Unschuld)
 (i)暗示的な二重語義(上の(b)の例)

 上記の「二重語義」は「同一素材の利用」に、「同一素材の利用」は「圧縮」に還元可能。

 一方、「思想の機知」は「思考の過ち」(「思考過程の転位」としてのナンセンス)「単一化」「間接的な表示」に分かれる。このうち、「間接的表示」には「反対物による表示」「同類のものによる表示(ほのめかし、省略)」「最小のものによる表示」および「比喩」という下位区分がある。


Ⅲ. 機知の諸傾向

 機知は「無害な機知」と「傾向的な機知」に分かれ、「傾向的な機知」には「敵対的」「露出的」(猥褻)「シニシズム的」「懐疑的」のカテゴリーがある。機知はこれらの「傾向」(思想内容)の「外装」のやくわりをはたす。


B 綜合的部門

Ⅳ. 快感のメカニズムと機知の心因

 機知の快感は、外的ないし内的な障害を乗り越える際の「心的消費の節約」にある。

 外的な障害とは、「救世主はどこにいるの?」あるいは「父親がかつて居城で……」におけるパトロンや城主のようなものであり、他方、内的な障害とは「赤いファーデン」のN氏にとっての「高度の美的教養」といったものである。「抑圧」は内的な障害の典型的なものと位置づけられている。

 機知の技法のうち、

 (1)代用(3)思考の過ち、転位、矛盾、反対物による表示etc.

 は、「昔の自由の回復および知的教育の強制の解除」にやくだつ。これは「既知の心的消費の軽減」であり、内的障害の乗り越えをいみするとおもわれる。

 一方、

 (2)単一化、同音、多様な利用、周知の言い回しの修正、引用へのほのめかし

 は、「心的消費の軽減」にやくだつ。これは「はじめて召集さるべき心的消費の節約」とされるが、つまり、外的障害をのりこえるということであろうか?

 両者の区別はそれぞれ「思想の機知」「言葉の機知」に重なるとされるが、「分析的部門」の章での分類と微妙にずれたところがあり、わかりにくい。

 機知は、その前史として「遊び」「冗談」という段階をもつ(機知の発展史)。

 子供の遊びにおいては「理性」が、冗談においては「批判的判断力」が、そして機知においては「抑止」からの解放が目指されている。(この点において、ユダヤ・ジョークに著しい「シニシズム」との関係はどう捉え得るだろうか?)

 機知は傾向的であることがほんらいのありかただが、さいしょは遊びとおなじく傾向性をもたない。

 機知における抑圧の廃棄という目標は、幼児における理性の廃棄に還元される。

 「機知の快感は、本源的な遊びの快感という核心と廃棄の快感という外皮とを示している」。

 傾向性はこの「外皮」であり、それは聴き手の注意を引きつけることによって、無意識的な抑圧を意識化させないまま解除することにやくだつ。(次節で述べられているごとく、機知は「驚き」「不意打ち」であることを要求し、「意識的な思考関心を目ざめさせてしまうと、機知ではなくなってしまう」。)


 Ⅴ. 機知の動因、社会的過程としての機知

 「滑稽なものに出会うと、私は心からそれを笑うことができる。それを伝達することによって他の人を笑わせる場合にも、とにかく自分も面白いのである。ところが、自分が思いついた、自分がつくった機知に関しては、私自身は、その機知に明らかに満足感は味わっているにもかかわらず、笑うことはできない」。

 ここから「機知の伝達への欲動」が発する。すでに「序論」の末尾でつぎのように述べられている。「一つの新しい機知はほとんどすべての人の関心を惹く出来事のような作用をする。それは最新の勝報のごとくに人から人へと伝えられる。自分がいかにしてかかる重要人物となり、どのような都市や国々を見、いかなる卓越した人々と交際をもっているかといったことを語るに値することとする人々でさえも、自分の伝記に、聞いたことのあるあれこれのすぐれた機知をとり入れることをしりぞけてはいないのである」。

 滑稽や夢とはちがい、機知には「伝達への欲動」が内在しており、それゆえに機知は本来的に「社会的」である。「機知は、快感獲得を目ざす精神的活動すべてのうちでもっとも社会的なものである」。
 
 機知を思いついた本人が笑えないのは、機知による抑圧の解除によって節約されたエネルギーが、機知をつくるという「仕事」(機知は遊戯的なものではない)そのものに費やされるからであり(「機知作業の消費はいかなる場合にも、抑制の廃棄によって得られたものから差し引かれる」)、機知の恩恵は、それを聴くことでみずからの抑圧が解除される快感を味わい笑う第三者にのみ「贈り物」として届けられる。そして、「われわれは自分にできない笑いを、笑わされた人物の印象という迂路を経て獲得することにより、われわれの快感を補充している」。言い換えれば「自分自身の笑いをかきたてるために他人を利用している」。機知を吐いた本人が、聴き手の笑いに事後的に和すという光景はよく知られているとおりだ。というわけで、「機知形成の心的過程は機知を思いつくことだけでは終わらないように思われる。……この思いつきを伝達すること[が]機知形成の未知の過程を完結させる」。

 シェイクスピアもすでに書いている。「冗談の成否は聞く者の耳にあるので、それを言う人の舌にあるのではない」(『から騒ぎ』)。以上のような意味で「機知は同時に二人の主人に仕えるそれ自身二枚舌的な悪者である」。なお、機知における「第三者」の必要性は「Ⅲ. 機知の諸傾向」における猥談(露出的な機知)についてのくだりですでにふれられている。

 つづけて「精神的興奮の排出」が笑いというかたちをとることについて、フロイトは『情動の表出』のダーウィンに依拠しつつ、つぎのように述べている。

 「笑いの特徴である口もとをゆがめる動きは、乳児が満足して満腹して眠り込み、乳房をはなすときにはじめて現れる。そこでは、その動きはまさしく表現の活動である。……この快感にみちた満腹という本源的な意味が、笑いの基本的現象である微笑に、快い排出現象との以後の関係をつくり出したのかもしれない」。


C 理論的部門

Ⅵ. 機知と夢および無意識との関係

 機知と夢のメカニズムがパラレルであることが確認される。ちなみに「序論」には、「あらゆる精神的事象の深い内密な連関という事実」という一節が読まれる。次節においては「鍋」のユダヤ・ジョークを「『あれかこれか』を知らず、「同時的な並列あるのみ」の夢のメカニズムに結びつけた一節がある。


Ⅶ. 機知および滑稽なものの諸種

 ジャン・パウル、リヒター、リップスらの先行者の関心が機知よりもむしろ滑稽なものにむけられていたことをふまえ、二つのメカニズムの関わりが考察される。「機知はつくられるのだが、滑稽は見出される」。「機知は、いわば無意識の領域からの滑稽への寄与である」。

 「滑稽な運動や行為の場合には、私が必要だと考えるよりも他人がより多く消費をしたときが滑稽であった。ところが、精神的な仕事の場合は、私が不可欠と考える消費を他人が節約してしまったときが滑稽なのである」。「われわれの思考への消費を高めることによって同一作業のためのわれわれの運動への消費は減少せしめられる。その文化的達成は機械が証明している」……

 「滑稽なものの依存性ないし相対性は機知のそれよりもはるかに大きい」(笑いへの期待、ネタバレetc.)。
 
 滑稽なものの「心因」を「子供の喜悦の後遺作用」(「子供の玩具への褪色した記憶」)に見出したベルクソンへの共感。「子供のある種の快感の動因はわれわれ大人かたは消え失せてしまっているように思われる。そのかわりわれわれは同じ条件の下で、失われたものの代償として『滑稽』感を覚えるのである」。言い換えれば、「滑稽なものは『失われた子供の笑い』の再獲得」である。それゆえ、「私は他人の中に子供を見出すたびごとに他人と私のあいだの消費の差異を笑うのだ……。したがってこの笑いは、いつも大人の自分と子供の自分との比較ということになる。その場合、事実上、滑稽なものはつねに幼児的なものの側にある」。「状況の滑稽はたいていは、われわれが子供の頼りなさを再発見するところの困惑状態にもとづくものである」。同じように「夢の無意識の中とか精神神経症の単一観念とかにおいては、子供の節度のなさがふたたび現れてくる」。

 最後は「ユーモア」についての考察によって締め括られる。「ユーモアとは、快感を妨げる苦痛の情動にもかかわらず快感を獲得するというための一手段である」。たとえば、死刑台へと向かいつつ風邪を引かないようにとマフラーを巻く「引かれ者の小唄」。よた者への同情が節約され、使い道がなくなった情動が笑いによって消散される。「しかし、そのよた者の無頓着さは彼において大きな心的作業の消費を要したのだと気づけば、それがわれわれにもいわば伝染してくる」。

 「ユーモアのある人が自分の現在の苦痛の情動を笑うように、こんにち大人がそれを笑うような強度の苦痛の情動は子供の生活にのみ存在したものである。ユーモアの転位が証明するような自我の高揚――私はこれらの諸動機によって苦痛を感じさせられるよりもはるかに大きいのだ――は、彼が現在の自我を子供のころの自我と比較することから得てくることができる」。

 機知、滑稽、ユーモアのいずれにおいても快感は「節約」に由来する。「この三つはみな、精神的活動から、本来その活動の展開によってはじめて失われるにいたったところの快感を再獲得する方法を示している点で一致[する]。……われわれがこのようにして到達しようと努めている上機嫌は、そもそもわれわれが心的作業をごく僅かな消費でまかなうのをつねとした時代の気分にほかならず、われわれが滑稽なものと知らず、機知もできず、ユーモアも用いることなくして生活に幸福を感じえた子供の時代の気分にほかならない」。


 以上、訳文は『フロイト著作集』(人文書院)にならう。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。