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「フロイトの精神分析の方法」他一篇(1904年)

「フロイトの精神分析の方法」(1904年)

 精神分析の効果がある人はかぎられている。錯乱状態あるいは憂鬱症の抑鬱状態にある者、あるていどの知性と倫理的な発達を遂げていない者、著しい性格の歪みや変質的な体質の者、五十歳以上の者には効果がない。
さらに「あまりにつまらない人物に対しては、患者の精神生活に深く入ってゆこうとする興味を医師の方がやがて失ってしまう」。


「精神療法について」(1904年)

 暗示的療法と分析的療法の区別がレオナルドによる絵画と彫刻の区別になぞらえられている。前者は何かを「つけ加え」、後者は「取り除く」。
 
 「この楽器[心という楽器]にどういう名をつけようと勝手だが、そうかんたんに鳴らされてたまるものか」(ハムレット)。

 精神分析の成果のためには「いかに費用がかさもうと取るに足らないこと」。

 「価値の低い人間」「変質者(dégénéré)」は分析的治療に値しない。

 患者に「教育を与え得る可能性」は分析の条件。「内的抵抗を克服するための成人教育」としての精神分析。

 「われわれのいう無意識は、哲学者のいうそれとまったく同じものではありません。それどころか、たいていの哲学者は『無意識』について何も知ろうとはしないのです」。



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「性理論のための三篇」(初版)

「性理論のための三篇」初版(1905年)

 本篇は年を追って度重なる追書きを加えられた。初版は1924年の最終的な版の3分の2ほどの長さである。本篇においてフロイト独自の観点はほとんどないとされるが、核となる主題はフリースの両性性理論に基づく幼児性欲論、および潜在期についての考察であろう。発達段階論は1915年の版において導入されることになる。


(1)両性性
 「フリースは生物学的な両性性を強調したのに対して、フロイトは男性的傾向および女性的傾向が子供時代から誰の中にも共存していると仮定して、この着想を初めて心理学的領域に適用した。従って最終的な対象選択は、一方の傾向がもう一方より優位であることに依拠している」(キノドス)。

 「インヴァージョンを心的半陰陽の表現として理解すること……」

 「リビドーは男性的な本性をもち」、「小さな娘の性愛はまったく男性的な性格をもっている」

 「パーヴァージョンの傾向がひろくゆきわたっていることが知られた以上、われわれはどうしても、パーヴァージョンの素質というのは人間の性欲動の根源的で普遍的な素質なのであり、成熟にともなって現れる器質的な変化や心的制止の結果として、そこから正常な性行動が発達してくるのである、という見地をとらざるを得なかった」

 本篇においては、誘惑理論の放棄が(初めて)明確に確認される。誘惑という外的偶然は、幼児性欲の必然性を前にして二次的なものにすぎなくなる。


(2)潜在期

 「小児の健忘は各個人の小児時代をいわば一種の前史的な前代のようなものにし……」、「われわれの知見のうちにこうした生じた間隙をみたすことのできる観察者は、ただのひとりもいないのである」

 フロイトは潜在期という謎を、かつてかれが直面したヒステリーの謎に重ね合わせ、それによって解き明かそうとする。

 「小児健忘の存在が小児の精神状態と神経症素質者のそれとのあいだに新しい一つの比較的をつくりだしている」

 そして神経症者と正常な幼児に共通のこの機制(抑圧)を説明するものをフロイトは系統発生的な要因に求める。

 「このような発達は器質的に条件づけられ、遺伝的に固定したものであって……」

 「個々の欲動の動きはどのような順序で活動的になるのか、また、新たに現れる欲動の動きや典型的な抑圧の影響のもとにおかれるようになるまでには、それはどのくらいのあいだ自己を表出することができるのか、というようなことは、系統発生的に確認されているように思われる」。

 「人間には性の発達に二つの開始期があるという事実、すなわちこの発達が潜在期によって中断されているという事実は、とくに注目すべきことであるように思われた。このことは人間が高い文化を発達させることのできる能力の条件の一つをふくんでいるようにみえるが、しかしまた神経症になる傾向のそれをふくんでいるようにもみえる。……このような人間的な特性の由来を知るためには、われわれは人類の前史にまでさかのぼらなければならないだろう」。

 上の引用からわかるとおり、潜在期は「昇華」に結びつけられ、抑圧は文化の条件であると位置づけられる。

 「後年の個人的な教養や正常性は……小児の性の興奮そのものを犠牲にして行われるのであって、したがってその性的興奮の流れはこの潜在期中もやむことはなかったのであり、エネルギーはしかし——まったくか、あるいは大部分——性的な使用からそらされて、ほかの目的に向けられるのである。性的な原動力をこのように性目標からわきにそらして、新たな目標に向けること、それは昇華という名に値する一つの過程である」

 「文化と自由な性愛の発達とのあいだの関係は対立的なものであって、その帰結ははるかに遠く、われわれの生命の形成にまでさかのぼって追求しうるようなものであるために、小児の性生活がどのように経過したかということは、文化や社会の発達段階が低級なところでは、のちの生涯にとってほとんど問題とはならず、それが高級であればあるだけ重要な意味をもつのである」

 潜在期という謎をめぐる考察は、やがて発達段階論を導くだろう。発達段階論は1913年の「強迫神経症の素因」における肛門サディズムの記述にはじまるとされ、1915年以前の版では明確な言及はない。発達段階論が系統発生という考えに裏付けられていたことは言うまでもない。系統発生についての言及は、ユングと訣別する1910年代前半から目立って来る。

 本篇にはほかに部分欲動、性感帯、対象選択についての画期的な考察がふくまれている。


 以上、訳文は『フロイト著作集』(人文書院)より。

フロイト/フリース 最後の往復書簡(1904年)


書簡281(フロイトからフリースへ 1904年4月26日付)

 「何人かの有能な若い――僕は君に何も秘密にしようとは思いません――僕の弟子仲間に属する医者たち」が企てている新雑誌創刊への協力の依頼。「至るところで僕の見解に対する賛成の徴候が増えている」。その一つはオイゲン・ブロイラーによるもの。あるいは、スヴォボダの著作は「いくつかの点で僕がその知的な原作者です」。「僕は今や弟子にもっと[スヴォボダよりも]よい人材をももちはじめていると思います」。「死後の勝利については僕は実際疑ったことがありませんでした」。


書簡282(フリースからフロイトへ 1904年4月27日付)

 「君がいっそう高く評価されているという知らせは、僕を心の底から喜ばせました」。が、多忙のため雑誌には協力できない。スヴォボダは周期理論を曲解しているだけでなくその著作は不誠実であり、「君がスヴォボタの本の知的な原作者とみなされなければならないということは僕には本当に残念なことです」。ところで、一年前に材料を見せてくれた「機知」は完成しただろうか?


書簡283(フロイトからフリースへ 1904年7月15日付)

 フリースの義妹の結婚を祝福。


書簡284(フリースからフロイトへ 1904年7月20日付)

 オットー・ヴァイニンガーの著書にフリースの両性性理論からの盗用があるとの訴え。ヴァイニンガーはフロイトの「弟子」スヴォボダと親友であり、フロイトからの情報がスヴォボダを経由してヴァイニンガーに伝わったのではないか?


書簡285(フロイトからフリースへ 1904年7月23日付)

 フリースの憶測を裏付ける報告。ヴァイニンガーは「押し込み強盗」であり、「自分の犯罪者的性質を恐れて」自殺したようだとしながら、ヴァイニンガーに伝わったのは「両性性」という言葉だけであり、ヴァイニンガーは別のところから両性性理論へのヒントを得た可能性もあると弁明。また、スヴォボダは自分の「弟子」ではない。フロイトの患者であったスヴォボダが「僕[フロイト]の本夢理論を反駁するために自分の発見を利用するという神経症的な感謝の仕方」には驚かされた。「僕は目下、『性に関する三つの論文』を完成しつつありますが、そのなかで両性性の論題を可能なかぎり避けています」。性倒錯と神経症者の同性愛的傾向に関する箇所においては触れずにおくことができなかったので、フリースにパテントがあることを注釈で明記する予定。


書簡286(フリースからフロイトへ 1904年7月26日付)

 ヴァイニンガーが別の文献から両性性理論のアイディアを得た可能性はあり得ない。ヴァイニンガーがフロイト本人に会ったことも、フロイトが治療において両性性理論を利用していたことも、スヴォボダがフロイトの患者であったことも初耳である。


書簡287(フロイトからフリースへ 1904年7月27日付)

 これが二人の間に交わされた最後の書簡。スヴォボダへの非難とヴァイニンガーとの会見を忘れていたのは失錯行為であるとの弁明。「君から独創性を盗もうとする僕自身の試みとの共同作用で、僕はヴァイニンガーに対する僕の振舞いとその後の僕の忘却を理解することができます」。さらに「考えは特許を取ることはできません」。しかも、フロイトはすでに性倒錯についての諸文献に両性性理論の存在を確認していたとも。「君は、明敏な頭脳の持ち主なら一人でも容易に若干の人びとの両性的素質をすべての人びとに広げる一歩を踏み出すことができるということを認めるでしょう。もっとも、この一歩は君の新機軸ではありますが」。理論が正しければ正しいだけ、多くの人がそれを思いつく可能性があり、理論が「盗用」されるのはその正しさの証拠だとでも言いたげである。「僕は、君が文献に目を通す際に多くの人びとが少なくとも君の近くまで来ていることを見出すのではないかと恐れています。[……]君はそれ[その証拠]をクラフト=エビングの『性的精神病質』のなかに見出すでしょう」。

 「『日常生活』で率直に報告されている経験以来、僕は僕たちの一人が僕たちのかつての無制限の意見交換を後悔するようになるかもしれないと思い、君の報告の細部を忘れようと努力して成功しました。僕の気前のよさあるいは軽率さが君の財産を思いのままに処理したことで、当時僕は、今日完全な明晰さのなかでしているように、どうやらぼんやりと自分を非難したようです」。

 「君が僕を非難しているこの事件が長いあいだ眠り込んでいた文通を再び目覚めさせたということを、君だけでなく、僕もまた残念に思っています。しかし、君がこういうつまらないことを切っ掛けに僕との文通の時間と意志を再び見出したとしても、それは僕のせいではありません。なんといっても、君は、この数年間[……]僕にも僕の家族にも僕の仕事にももはや関心を示さなかったのだから。僕は今ではもうその苦しみを乗り越えていますし、もはやそれを求める気持ちはほとんどありません」。

 「生まれてこの方ずっと僕は、そこから何が生じるかを気にかけることもなく、示唆をまきちらしてきました。僕は自分が傷つくことなしに、僕がこれこれのものを他の人から学んだということを認めることができます。しかし、僕は決して他人のものを自分のものにして横取りしたことはありません」。脱稿したばかりの「性に関する三つの論文」がフリースの「生物学」の内容を先取りしている可能性があるが、いつ出るのかもわからないフリースの「生物学」の出版を待っているほど暇ではないので、両性性に触れた注の校正刷りを読んでくれるなりご随意に……。


 ……かくて一つの友情が終わりを迎える。盗用疑惑の一件に関してこの後出版された某リヒャルト・プフェニヒによる『ヴィルヘルム・フリースとその追発見者:O・ヴァイニンガーとH・スヴォボダ』という小冊子においては、フリースの仕事に精通していたフロイトが二人の仲立ちとなることで情報提供者の役割を果たしたとされている。この著作による教授資格認可への影響を懸念したスヴォボダは反論の書を出版すると同時に名誉毀損の科でフリースを告訴するが、訴えは聞き入れられなかった。 

1902年のフリース宛書簡


書簡276(1902年1月17日付)
 エルンストとアンナが猩紅熱に。「彼らは学校へ行くことを許されていないので人生を楽しんでおり、素晴らしく元気に育っています」。『夢解釈』の書評を専門誌にやっとのことで二本発見。

書簡277(1902年3月8日付)
 ついに教授に昇進。

書簡278(1902年3月11日付)
 「僕は少し前に君という僕の最後の聴衆を失っていたので僕の最近の論文[編注:ドラ]を印刷から引っ込めてしまいました」。 

書簡279(1902年9月10日付)
 教授任命に至るいざこざの一部始終。「もうすでに祝辞や贈花が雨あらしと押し寄せていて、まるで性の役割が突然陛下から公に承認され、夢の意義が閣議で確認され、ヒステリーの精神分析的治療の必要性が議会を三分の二の多数で通過したかのようです」。「僕は、新世界がドルに支配されているようにこの旧世界が権威に支配されていることを学びました。……もし僕が三年前に二、三の手を打っていたなら、僕は三年前に任命され、いろいろなことをせずにすんだでしょう」。

書簡280(1902年12月7日付)
 フリースの娘が死産したことへの悔やみ。

1901年のフリース宛書簡

書簡259(1901年1月1日付)

 「君の手紙がついに不安な沈黙を破った今、僕は君に直ちに返事を書くために、日常生活の精神病理を脇に投げています。手紙を書くことが君にとって負担になっていて、君が報告の必要に動かされないということを、君があれほどはっきりと示したとき、僕は君にもう一度便りを促す決心がつきませんでした」。
 フリースの母堂の病気、数少ない患者たち、マルティンの詩、ミンナの健康状態、オスカル・リーの診断結果への不信。ほかに何もなし。


書簡260(1901年1月10日付)

 「日常生活」と「夢とヒステリー、ある分析の断片」を並行して書き進めている。出版社は未定。
 

書簡261(1901年1月25日付)

 周期説への無関心。ミンナは潰瘍に。前日に「夢とヒステリー」脱稿。「これは本当は夢の本のつづきです」。出版元も決定。「日常生活」も同じ出版社に押しつける目論見。


書簡262(1901年1月30日付)

 ミンナの病状の診断。「夢とヒステリー」がフリースに気に入ってもらえるかもしれないとの期待(性感帯と両性性への言及)。半分完成している「日常生活」にふたたび着手の予定。さらに第三の仕事を計画中。


書簡263(1901年2月15日付)

 「復活祭にローマへは行きません。……僕はただ現在から当時の空想のうちの最も美しいものへ逃げていただけです」。数日中に「日常生活」脱稿予定。くだんの第三の仕事(性生活と神経症の関係)は「貧乏人の水っぽい料理」。左利き検査を導入。ミンナの病状改善。ブロイアーに哲学協会での講演を押しつけられるが、キャンセル。


書簡264(1901年3月3日付)

 オリヴァー、ついでエルンスト、ゾフィー、アンナが相次いではしかに。「僕の家は今ちょっとした病院になっています」。ミンナの病状は良好。「日常生活」脱稿。不確定ながら、次の日曜日に診察のためにベルリンを訪問する予定。


書簡265(1901年3月9日付)

 子供たちのはしかがピークに。「夢とヒステリー」の版元から「日常生活」も出ることに。ベルリンには行けず。自分がベルリンにいる夢。


書簡266(1901年3月24日付)

 『夢解釈』の好意的な批評にご機嫌。子供たちとミンナの病状。「運命がそのすべての脅しを同時に実現しないなら、幸福と思わなければならない」というのが「幸福の本質」と見つけたり。


書簡267(1901年5月8日付)

 誕生日にフリースから受け取った手紙と贈り物に対する喜びの言葉。ただし、「魔法に関する箇所を除いて」。「僕は依然として読心術に忠実で、引き続き『魔法』を疑います」。「一籠の蘭は僕に絢爛たる美しさと太陽の灼熱を本当と思わせ、ケンタウロスとファウヌスの描かれたポンペイの壁の壁画は僕を憧れのイタリアへ移します。 Fluctuat nec mergitur!」。エトラッハで水治療を受けに行っているミンナをフロイトはすでに二度訪ねた。回復ぶりは良好。校正中の「日常生活」は「無秩序」で「素晴らしく気に入らない」。


書簡268(1901年6月9日付)

 「毎日二回一定の時間に往診している老婦人が昨日田舎に連れて行かれました。そして僕は、自分が彼女にもうあまりにも長く注射を待たせているのではないかと、十五分事毎に時計を見ています。このようにわれわれは、足枷がとられた後にまだ足枷を感じ、われわれの自由を享受する術を心得ていないのです」。
 夏の滞在地は未定。ミンナは回復。「この世から苦しみと死を追放したいと思うのは愚かなこと」。


書簡269(1901年7月4日付)

 母親の元にいるミンナを訪ね、トゥムゼーに馬車で遠出。「僕の大事な患者の近くに滞在することは僕にとって特別価値のあることです」。ローベルト・ブロイアーと寝台車で同室に。患者L・G。『スフィンクスの謎』。「神話が夢に遡ること」。フリースの家族の病気への心配。クレタ島での宮殿の発見。


書簡270(1901年8月7日付)

 何人かの患者について。くだんの老婦人は逝去。フリースの両親へのいたわり。「僕たち二人がいくらか離ればなれになったことは、まったく隠しようがありません。……例えばブロイアーに関する判断でもそうです。僕はもうとっくに彼を軽蔑しなくなっています。僕は彼の強さを感じました」。かつてブロイアーがフリース夫人に対し、フロイトへの嫉妬をかき立てたことが再び想起させられると同時に、「読心術者は他の人びとにおいて単に自分自身の考えを読み取るだけである」というフロイトに対するフリースの皮肉が糾弾される。『日常生活』にはフリースの影が色濃く宿っており、同書は「君が今まで僕の人生で果たした役割について証言してい」るとされる。「僕は男同士の友情に対する君の軽蔑には賛成しません。……僕の人生においては、……女性が仲間、友人の代わりになったことは一度もありません。もしブロイアーの男性への好意が、彼のすべての精神的なものと同じように偏屈で、臆病で、矛盾に満ちたものでないなら、それは、男性における男性愛的傾向が昇華されて何が達成され得るかということの、素晴らしい例になるでしょう」。トゥムゼーでの楽しい日々。ミンナの病状は変化なし。「僕の次の仕事は『人間の両性性』という表題になるでしょう」。「抑圧は二つの性的な流れの間の反応によってのみ可能であるという着想[……]。この着想そのものは君のものです。僕は君に何年か前、[……]解決は性にある、と言ったことを君は覚えているでしょう。その何年か後に君は、両性性に、と言って修正しました。そして僕は君が正しいことがわかります。だから、ひょっとすると、僕はもっとたくさんのことを君から借用しなければならないかもしれません。ひょっとすると僕の誠実感が君に、この仕事の共著者になるように君に頼むことを強いるかもしれません。そうなると、僕では貧弱になってしまう解剖学的-生物学的な部分が拡大されるでしょう[……]」


書簡271(1901年9月19日付)

 「それ[ローマ]は僕にとっても圧倒的でしたし、君が知っているように、長い間抱きつづけてきた一つの願望の実現でした。[……]僕は完全に、そして邪魔されずに古代ローマに熱中しましたが、第二のローマ[編注:キリスト教のローマ]をこだわりなく楽しむことはできませんでした。[……]僕は、僕の惨めさや僕が知っているその他のあらゆることを心から追い払うことができず、頭を空高く上げている人類救済の嘘を我慢できませんでした」。

「君のこの前の手紙は本当に快いものでした。[……]君が僕に真実以外の何かを言ったのは、これが最初でした。君が君の偉大な仕事に対する僕の態度について書いていることは不当だということが僕にはわかります。[……]君も知っているように、僕には数量的なことに関する能力がほんのわずかもなく、数と量に関する記憶力が少しもありません。[……]僕の心を傷つけた唯一のことは君の手紙のなかのもう一つの誤解、『実際君は僕の発見の価値を台無しにしている』という僕の叫びは僕の治療に関係がある、という誤解でした。[……]『唯一人の聴衆』を失うことが僕には残念でした。いったい僕は他に誰のために書いたらよいのでしょうか。[……]両性性という論題に対する君の返事を僕は理解できませんでした。[……]僕は確かに、両性性の理論に僕が付け加えたものに手を加えること、抑圧と神経症は、したがって無意識の独立性は、両性性を前提としているという命題を詳述する以外には何もしようとは思いませんでした。僕がこの認識の僕の持ち分を拡大するつもりでなかったことは、それ以来『日常生活』のなかの優先権に関する当該の箇所が君に示しているでしょう」。


書簡272(1901年9月20日付)

 送られてきたフリースの講演「鼻と性器の因果関係」についての賛辞。「自分を抑える術を心得ている」「古典的な文体」。


書簡273(1901年10月7日付)

 フリースがフロイトの許に送った患者K. Do夫人についての報告。夫が干渉し、困難な治療に。


書簡274(1901年11月2日付)

 同上。「彼女は興味深い、そして貴重な人物です」。


書簡275(1901年12月7日付)

 くだんの患者の治療は十週間で中断。

症例ドラ:『あるヒステリー患者の分析の断片』

『あるヒステリー患者の分析の断片』(1905年)

 出版は1905年にずれ込んだが、1901年1月には脱稿していたとされる。4年のタイムラグは、内容の露骨さに出版社が怖じ気づいたためらしい。ゲイは、4年間お蔵入りになっていたことよりも、この失敗した分析の記録をフロイトが発表したこと自体が驚きであると述べている。

 もともと『夢とヒステリー』というタイトルが予定されていた。ストレイチーは『夢解釈』と『性欲論三篇』とを繋ぐテクストとしての位置づけを強調している。倒錯と神経症の関係、幼児性欲についての言及(「神経症は倒錯のネガ」、「誰かが明白な性倒錯になった場合、より正しくは、彼は倒錯にとどまっているというべきなのである」etc.)はすでに1896〜97年のフリース宛書簡に見られる。一方、ドラの症状行為 Symptomhandlung(自慰の「パントマイム」)は、同時進行中だった『日常生活の精神病理学』へと送り返される。「死すべき運命にある者はいかなる秘密をも隠すことはできない。唇を固く閉ざしている者も、指先では喋ってしまうものである」。

 転移が明確に概念化されているテクストとして知られるが、これはこの分析の失敗の教訓としてもたらされた。アスーンはそのほかに「身体側からの対応」 somatisches Entgegenkommen (G.W. tome V, p.200)という概念(その後「精神分析的観点からみた心因性視覚障害」に再登場するのみ)、および投射のメカニズム(「原始的機制」)とパラノイアへの言及に注意を促す。

 ヒステリーの決定因が心理的なものであったとしても、それは器質的要因を利用する。これはヒステリーの条件である。「ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要なのである。それはある身体器官の、正常ないし病的現象によってなされる、ある種の身体側からの対応がなければ成立しない」。ドラの咳と失声は、自慰の一形態である指しゃぶり(および原光景の体験を引き金とする喘息発作?)にその「身体的な基底」をもつ。父親とK夫人のオーラル・セックスを空想することで、この幼年期の記憶が再賦活されたのだ。虫垂炎の「後遺症」としての不自然な足の痛みにしても(「誤った歩み」による出産空想)、幼児期に挫いた方の足にあらわれた。こうした器質的条件は、「真珠貝がその周囲に真珠をつくり出す砂粒」のように、あるいはもっと即物的な比喩によるならば、「装飾の花」が飾られる「針金の花輪」として機能する。

 「私が転換と呼んだ純粋に精神的な興奮が身体的な興奮に移行することには、それに好適な多くの条件がそろわねばならず、転換症状に必要な身体側からの対応は非常にもちにくいので、無意識からの興奮の発散欲動は、できるかぎり、すでに通過可能となっている発散路を使用することになる。……このように経路づけられた道の上を、興奮は新しい興奮源から以前の発散点へ流れてゆき、かくて症状は聖書の表現のごとく、新しい酒で満たされた、古い皮革に似るのである」。

 フロイトが転移および同性愛的愛着を見逃したために分析は失敗した。フロイト自身、最大のネックと認めるドラの同性愛的愛着については、フリースの両性性理論との関連が問われなければならないだろう。フロイトはこの失敗した分析に対してなお楽天的にかまえており、分析の中断は患者の意志によるものとしているが、ドラは治癒しないままフロイトのもとを追い払われた。ドラことイダ・バウアーは、その後40歳のときに「メニエール症候群」の治療のためにフェリックス・ドイッチュの分析を受けている。ドイッチュが発表したイダ・バウアーの会見記はなおフロイトに対して肯定的であるが、マホニーは、フロイトがドラよりも彼女を「道具に使った」周囲の大人たちの方につねに同情的であることを告発している(たとえば、「粗暴な」という辛辣な形容)。

 引用および訳語は人文書院『フロイト著作集』に倣う。
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