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「心理学草稿」

「心理学草稿」(1895年)

 「草稿」の第一の野心は「量的把握」にある。心的過程の一切が量の度合いに還元される。量の実体(「神経伝達物質」)は問われない。「痛み」とは、大きい量のことであり、感覚の質的なカテゴリーではない(Gesammelte Werke p.399)。

 第二の野心は「Q’η理論[慣性の原則]に最新の組織学がもたらしたようなニューロンの知見を組み合わせるという構想」(GW 390)

 スタンダード・エディションおよび Gesammelte Werke の注によると、「ニューロンを神経系の基本単位を記述する用語として導入したのはW・ヴァルダイアーであり、1891年のことである。フロイトは、自分の組織学研究によって同じ発見に導かれた」。ジョーンズによれば、それにもかかわらずフロイトは「それを実証する手続きへと進まなかったことでこの分野に名を残せなかった」(岩波版『全集』注による)

 「フロイトは生理学的現象と心理学的現象の間に一連の等価性を打ち立てる」(キノドス『フロイトを読む』)

 つまり、慣性の原則という生理学的モデルを心的事象に適用する。

 R・シェママ編『精神分析事典』は、「草稿」におけるニューロンシステムが「隠喩的価値」をもつものと位置づけている。

 ともかくそれは記憶のメカニズムを「機械論的」に説明するだけでなく、記憶の発生と目的を「生物学的」に説明するという大胆な試みを意味するだろう。

 神経細胞(ニューロン)は、細胞のひとつである以上、興奮(量)を受け取るとそれをすぐに放出するかぎりで慣性の原則に則っている。

 ところで「神経組織の一つの主な特質は記憶である」(GW 391)。

 しかしそもそも記憶とは何か? フロイトの答えは明解だ。

 「ごく一般的に言えば、ある一回の過程で持続的に変化されるという能力である」(ibid.)。(記憶そのものとは、主観的な想起ではなく、形状記憶といったものに近い)

 そしてそのかぎりで記憶は慣性の原則に反する。

 この矛盾を説明するために、フロイトは大胆にも二種類のニューロンを区別する。

 外界に接し、外界からの刺激を受容する透過性のφニューロンと、φニューロンからこの興奮量を受け取ると同時に有機体自体からの「内的刺激」を受け取る非透過性のψニューロンである(ψニューロンはさらに、φニューロンから外的刺激の興奮量を受け取る「外套ニューロン」と、細胞内部からの刺激を受け取る「中核ニューロン」とに区別される。なお、外的刺激と内的刺激の区別は後に放棄され、欲動はもっぱら有機体内部からくるものとされる。「欲動とその運命」などを参照)。

 とはいえ、「φニューロンとψニューロンは本質的に同種である」。

 「あるφニューロンとあるψニューロンとは、その局在と結合を交換することができたならば、前者が非透過的、後者が透過的ということになろう。しかしながら、両者がその性格を保持しているのは、φニューロンは末梢とのみ、ψニューロンは身体内部とのみ関係を有しているからである。本質の差異は運命と環境の差異に置き換えられた」(GW 396)

 二種のニューロンが存在する理由を、フロイトは「生物学的」な説明に求める。

 外的刺激を放出するためには外界から受け取った興奮量を、その量そのものの放出に使える。一方、生体内部からの刺激は、その放出のためのエネルギーが外から入ってこないので、自前で調達しなければならない(このハンディをフロイトは「生の困窮」と言い表す)。

 なお、φニューロンとψニューロンの区別が「生の困窮」という「生物学的」経験に由来するものであるかぎりで、この区別は獲得形質の遺伝とも解釈できる。(リトヴォ『ダーウィンを読むフロイト』)

 ともあれ、それゆえに生体は、慣性の原則に則り、量を最小限度に保ちつつも、最小限の量をストックしておく必要がある。

 かくして、心的装置においては、慣性の原則は最初から破綻している。

 そして記憶の存在理由は内的な興奮の放出に求められる。

 φニューロンは、外界からの興奮量の大部分を放散すると同時にその一部(「商」)を通過させ、ψニューロンに伝える。

 ψニューロンは、興奮の量に応じて複数のニューロンを連結させて量が通る経路を開く(通道 Bahnung)。これが記憶である。(そしてこの通道の総体こそ「自我」なるものの実体である)

 個々の記憶とは、複数のニューロンの組み合わせ方を意味する。

 「φにおける大きな量はψにおいて唯一のではなく複数のニューロンに備給することによって表現されている」(GW 407)

 「φにおける量は、ψにおける複合化で表現される」(ibid.

 量の差異のみが個々の記憶を区別するから、記憶は相互の差異においてしか意味をもたない。(記憶の内容は、意識による量の質化を俟ってはじめて問題になるにすぎない)

 「記憶はψニューロン間に存在する通道[の差異]によって体現される」(GW 392~3)

  そして記憶とは、すぐれて量の放出の痕跡である。

 ψニューロンは、内的刺激にさらされた際に、この記憶に備給する。ただし、記憶はφニューロンによって放出された量の残余にすぎず、内的刺激による興奮量を放出するにはじゅうぶんでない。

 放出のためには外部からの供給を仰がなければならず、鳴き声を上げるといった「特殊行為」が必要になる。

 鳴き声はあらゆる言語の出発点であり、特殊行為はあらゆるコミュニケーションの源泉である。

 「人間が原初的に無力であることは、あらゆる道徳的動機の究極的源泉である」(GW 410)

 生体は本来慣性の原則に基づいていた。この傾向をフロイトは「一次過程」と呼んでいる。しかし、「生の困窮」に促され、記憶によって興奮量の最低限のストックを確保しようとするようになった。これが「二次過程」である。

 ラプランシュ=ポンタリスが指摘するように、ここにおける「一次」「二次」の区別は、たんに機能的な区別であるばかりでなく、人類がたどってきた歴史における順序を反映させていると考えるべきであろう。

 じっさい脳は、中心に近い、より古い部分(反射や生命維持を司る)に、より新しい部分(情動、理性を司る)がつけくわわることで進化してきた。(小泉英明『脳の科学史』など)

 いずれにしても、「二次過程」とは、慣性の原則に反するものではなく、破綻した慣性の原則を修復するために「一次過程」に留保を付す作為であり、そのかぎりで通道(記憶)はあくまで「二次過程」を担うものでありながら、「一次過程に役立つ」とも言われる(GW 393)。

 『草稿』の野心は、「最先端の機械論的理論」に依拠して心的過程を純粋に量的なプロセスとして描き出す試みにあった。とはいえ、「心的事象の主観的側面であり、生理学的な過程と不可分」である「意識」という謎を無視して通ることはできない。

 ジョーンズも言うように、「フロイトは意識状態を心理学的=生理学的過程のたんなる補完物とも、あらゆる心的過程の主観的側面とも考えてはおらず、一部の心的過程、つまり知覚という過程の主観的側面と考えていた」

 意識は量ではなく質の世界である。ところで科学は外的世界には連続的な量があるのみであると教えている。それゆえ、質は神経組織内部に宿ることになる。とはいえ、φニューロンもψニューロンも質を欠いている(記憶は量的な差異を本質とする)。そこでフロイトは意識を司るためのωニューロンを(大胆にも)想定する。

 量とは異なり不連続性、間歇性によって定義される質は、ニューロン間の量の転移ではなく、「周期」という「時間的」なモメントによって分節される。

 量の増加は「不快」という質に翻訳され、量の減少は「快」と翻訳される。これが「快-不快原則」の基盤となる。

 ωニューロンは、ψニューロンから受け取った量を[意識化によって]わずかではあるが放出する。

 第二部「精神病理学」篇において心的装置の極端なあり方を描写したあと、第三部「正常なφ過程を記述する試み」では、注意、関心、観察、同定、判断、誤謬といった諸「思考」形態の生理学的説明を試みている。

 第三部においても「生物学的」観点は維持されている。「神経系の生物学的獲得物」が語られ、「自我の発生という最深の問題」が最大のテーマとして掲げられる。

 以上、引用は『フロイト全集』(岩波書店)の訳文をお借りした。
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