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フロイト/フィスター往復書簡(1909年3月〜8月)


6F(30/03/1909)
 ユングの批評は気にするなかれ。ご来訪をたのしみにしている。

8F(10/05/1909)
 フィスターに贈られたマッターホルンの浮き彫りをめぐる夢想。あなたのおかげでじぶんはユングの言う「父親コンプレクス」から解放された。

9F(13/06/1909)
 論敵フェルスター派の論文への謝辞。年報のための「強迫神経症の一症例」。ユングがアメリカに随行。年のこの時期に感じるコロンブスとの類似。コロンブスのような大地への郷愁。

10F(12/07/1909)
 自分は夢解釈の先駆者について無知であり、剽窃者扱いされかねない。フェルスターは信頼できない。われわれの「学派」に秘密結社なところはない。

11F(16/08/1909)
 あなたの考えは精神分析の言葉を用いることによってもっと理解されるようになるだろう。アメリカ旅行中にユングからあなたの話を聞けることが楽しみだ。

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フロイト/フィスター往復書簡(1909年2月〜3月)


4F(20/02/1909)

 われわれの観点が異なるのは、感情が思考過程に影響し、さまざまな形での重要な意味をもつという点であることがあなたの手紙から確認できた。この語にあなたがあたえている歴史的な意味において、私もまた「プロテスタント」であることを認めたい。プラハの友人エーレンフェルス教授が「性的プロテスタント」という名称をこしらえたことが思い起こされる。[……]来月早々に届く小冊子(編注によれば「グラディーヴァ」論文)は、貴兄へのリスペクトのしるしであるとご理解願いたし。


5F(18/03/1909)

 『福音の自由』所収のフィスター論文「分析による魂の癒しと魂の治癒の一症例」についての意見。発表媒体の性質上、検閲がはたらいているのは致し方ないが、検閲が「最良のくだり」(ハイネ)にまで及んでいるのは遺憾。もっと大胆であってしかるべき箇所もある。宗教的な帰依においては、空想の創造的想像力が興奮を呼び起こすことはくりかえし述べるまでもない。宗教はみずからそれを認めようとはしないけれども。
 [論文中の]第一の夢においては、若い女性が「湖に飛び込む」が、「水上で自力で身を支えていて、……すぐに体が乾く」。これは出産の夢である。水から上がることは、コウノトリが赤ん坊を迎えにいくこと、つまり出産を意味している。一方、「水に入ること=出産」は、つぎのように説明し得る。死と性の強い結びつきゆえに、女性は生から解放されたいという願いを、性的空想の象徴的完遂によってしか実現できず、高所から飛び込む、あるいは服毒するのだ(服毒は悪阻に関係している)。
 反対物による表象の容易さゆえに、出産と誕生の象徴は、しばしば混じり合う。サルゴンやモーセやロムルスの神話における「小箱」も同じく誕生を意味している。ランクの「英雄誕生の神話」を参照のこと。小箱とは女性器である。ノアの箱舟の伝説も同じ。くだんの夢においては、男性が女性を助けに飛び込もうとするが、女性は自力で身を支え、自力で脱する。この女性は聖母であり、このくだりの意味は、男性は彼女が男性自身の子供を産むのを助けたいということ。とはいえ聖母は男性の助けなしに出産する。それゆえ、すぐに体が乾くとは、処女懐胎を意味している。この情景の信憑性にたいする夢見者のためらいは、カトリックの教義への疑いを示している。この夢はすでに見たことがあると夢見者が言うのは、母親の膣内の風景への既視感であり、母親の胎内への回帰願望を示している。精神分析の先駆者であるカトリックの良心の導き手が、性的な主題を最小限度に抑えたのはよく知られるところだが、実際には性の主題に精通しているのだ。
 あなたの探究はすぐに典型的な帰結を導き出すはずだ。というのは、宗教的な思考にとって、行動指針は家族のなかに跡づけられるから。「神=父」「聖母=母」「患者=キリスト」。この症例から確信を得たのは、(早発性痴呆に不可欠な)連想技法は神経症の分析においては自由連想にまさるものではないということ。すぐに悪影響が現れるだろう。

フロイト/フィスター往復書簡(1909年2月18日)


3P(18/02/1909)

 精神分析の役割を「魂の癒しの方法」であるとのじぶんの解釈の正しさがフロイト自身の言葉によって確認できてうれしい。フロイトと自分の考え方の(倫理的)相違は、じぶんの職業的立場がそう思わせるほど大きくない。プロテスタント的倫理は性交から不純という汚名を取り去った。宗教改革は、カトリック的な性的抑圧の分析にほかならないが、残念なことに、不十分な分析であった。そこから、教会の正統の不安神経症、ならびにその付随現象、すなわち、魔女裁判、政治的絶対主義、同業組合組織の社会的拘束等々が由来している。われわれ現代の福音派牧師は、完全にプロテスタントであると任じており、新たな土地を求めている。教会はチューリヒ市民に絶対的な自由を保障している。倫理については、自由な考え方ができる。われわれの性的条件は(都市部では)偽善に満ち、穢れている。一夫一婦制と嘘と売春の伝染病のあいだのおぞましい繋がりは明らかであり、たえがたい。ただし、結婚を回避する真の自由恋愛の可能性を見つけるための洞察には欠けている。「自由」恋愛と「野生の[wild]」恋愛の違いはあいまいである。われわれを神経症と悪徳の悲惨から解放してくれるのは、結婚についてのよりよい理論などではなく、社会状況の改善と教育とより健全な生活とである。さしあたっては結婚という理想に代わるものはなく、そこからどれくらい距離を置くかは各人の判断に委ねるほかない。イエスの教えに則り、この理想への道を切り開くことに専心すれば、短所の昇華を促すことになる。

フロイト/フィスター往復書簡(1909年2月9日)


2F(09/02/1909)

 ご著書を再読、明日の水曜会で取り上げる所存。それに関して以下の点を確認しておきたし。牧師の仕事と医学の相違点についてである(フィスターはシュテーケルに依拠しつつそれを論じている)。精神分析の持続的な成功は、(1)満足の放出(Befriedigungsabfuhr)、および(2)強情な欲動のコントロールと昇華の途を切り開けるかどうかにかかっている。精神分析の患者には道徳的な上昇は期待されていない。これは分析が扱う質的に下等な(minderwertig)素材ゆえである。一方、牧師はひとを宗教的な昇華に導くことができる。それは牧師の人格への「エロス的な転移」によって保証されている。そしてこの転移を神への転移にまで誘導することができる。そこにおいて宗教的な信仰が神経症を抑え込んでしまう(ersticken)。分析家にとっては、このような解決(Erledigung)のチャンスはない。分析の患者は非宗教的であり、分析家じしんも根本的に無宗教である。昇華への道が開かれていないので、分析治療は満足の探究に終わりがちである。分析家は、性的満足それ自体を罪や禁止の対象とは見なさず、むしろ生の営みの貴重な要素と認めている。分析家のいう「エロティックなもの[Erotik]」は、牧師のいう「愛」をも包含する。単なる野卑な官能の享楽ではない。精神分析において患者は分析家に道徳的な上昇とは別のものを求めなければならない。分析家の人格がそうしたものを体現することはできない。それゆえに分析家の義務は高まり、転移の解消にあたって成功を逃すことが多い。
 精神分析はそれ自体としては宗教的でもその反対物でもなく、公平な(unpartiisch)道具であり、聖職者でも世俗の人間でも、「苦しむ人間の解放」に用いるかぎりで実践可能である。私自身、精神分析的方法が「魂の癒し(Seelsorge)」の助けとなり得るかを考えてみたこともなかった。悪しき異端者としてのじぶんはそのような発想(Vorstellungskreis)からほど遠いからであろう。
 ユング的な連想技法は自由連想にたいするメリットをもたないが、厄介なケースや早発性痴呆のような精神病においては不可欠である。神経症者は多いに苦しんでおり、分析家との緊密な共同作業を必要とするからだ。ユングがあなたのモチベーションをかきたてたことはよいことだ。われわれの火種をもとにあなたが育んだ炎がわれわれに多くをもたらしてくれればよいものだ。

フロイト/フィスター往復書簡(1909年1月)


 ユングをとおして知り、フロイトともっとも篤い信頼関係によって結ばれることになるフィスター牧師との文通はフロイトの死にいたるまでつづいた。

1F(18/01/1909)
 「妄想的観念と学童の自殺」贈呈への謝辞。若く申し分のない(vollwertig)人たちの心理に通暁している牧師を精神分析の世界に招き入れることのできることのありがたさ。「われわれは半ば冗談で、そしてまたおおまじめに、つぎのやうな責めを精神分析に負わせる習慣があります。精神分析の使用を可能にするためには正常な状態をひつようとすること、心の営みの有機的な面の異常ばかりを対象にしていると壁に突き当たるので、けっきょく精神分析が最適条件にぶつかるのは、精神分析を必要としない場合、つまり健康人の場合であるということです」。その最適値をフィスターが提供してくれるというわけだ。

 この日および5月10日付けの書簡は長男の編集になる書簡集(Briefe 1873-1939、『フロイト著作集8』はその邦訳)にも収録されている。



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